月: 2017年6月
付1 先天的と後天的 – intention
DNA
僕の友人は、とある大きな新聞の週末版を作っている。その週末版では、毎号1面、2面を「時の人」のために特集する。ある週、隈研吾という話題の建築家の紙面を作り、次の週に、イデーというインテリア会社の黒崎社長の特集を組んだ。隈研吾は表参道にファッションビルを作ったと言って、黒崎は古くなったビルを住宅に変えるプロジェクトを進行中ということで時の人となった。
友人曰く、両方とも時の人だけど、時代は黒崎だよと言う。黒崎が、このコンヴァージョンプロジェクトを打ち上げた時、手弁当で参加したいという学生が山のように集まったと友人はあたかも見てきたかのごとく僕に告げるのである。学生が集まるのは、新しい何かを創り出すより、古くなった何かをカスタマイズすることの方がおしゃれであるというファッションセンスに繋がるところがあるようだ。
しかし時代が黒崎であろうとも僕らは建築家で、産み落とす職業である。そんな職能を前提としていること自体を古臭いとは少し思うけれど、産み落とす人はなくならないというのも一方の真理であろう。しかし、この産み落とすというところが曲者で僕らは何を願ってこの子らを産み落とそうというのであろうか?
人はDNAと言う設計図を親からもらうと言われているけれど、この設計図がその後の自分をどこまで方向づけているのかは正確にはわからない。人は社会に順応してオトナになるというのだから、この設計図はどこかで順応という書き換え(或いは修正)を施さざるを得ない。一方建築とはどんなものだろうか?時代のニーズの変化の早い現代では、産み落とされた時点のリクエストと20年後では明らかに異なると思われる。順応という設計図の書き換えがやはりいるのだと思う。
そうした書き換えこそがオトナへの成長であり人間なら一回り大きくなったと言ってポジティヴに考えられるわけだ。建築もそうした書き換えが年輪を重ねるという如くその建物の厚みを増していくようなことになるのだろうか。そんな書き換えられることを前提とした設計図を僕らは書けるのだろうか?
I 計画の不可能性と可能性
1)後天的1(先天不可) passive uncontrollability —S.M.L.XLのニヒリズム 2)後天的2(計画的後天) positive uncontrollability —メタボリズムの限界 3)後天的3(フレキシビリティ) II 建築という種子(後天的4) 1)オフィス2003年問題 III コントロールできないことをコントロールしないという計画(後天的5)
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第10講 関係の規則 きのこと宇宙船 – site
近代は工学が発明された時代である。工学とはengineeringであり、もとをただせば、それはengine、つまり力を動きに変換する装置、平たく言えば乗り物の学であった。船舶、機械(自動車)、そしてその粋は宇宙船である。
しかし、動かないけれど、人間を包む乗り物(容器)としてどういうわけか日本では建築もこの工学の仲間に入れられてしまった。技術の粋としての願いがこめられたのである。しかし、建築は宇宙船にはなれないのである。地球を代表し宇宙に飛び出る宇宙船は地球技術の最先端を際限ない予算を背景に開発される。一方建築は先ずは何十億という人間の住む場、政治の場、経済の場として単なる技術の産物とはなりえないのである。
しかし、そんな状態に業を煮やす技術者が登場するのは当然と言えば当然だ。何故建築が、そんなローテクなわけ?戦後アメリカで突如不要になった軍需産業をもてあました行政の困惑と、技術指向の建築家の夢がアメリカンプラグマティズムに後押しされて次代の建築へ向けて合体した。フラー宇宙船建築の登場だった。技術の粋を集めたテクノ建築プロトタイプの登場である。
さて話は十数年の後日本に移る。民家研究をしていた篠原一男は「民家はきのこ」という有名はアフォリズムを発するとともに建築は敷地から、クライアントから、その他の様々な条件から自由であるべきだと語り、建築を芸術化した。篠原の目指したことは、アート建築プロトタイプの作成だった。
前者は技術を指向する意味でモダニズムであり、後者は建築を諸条件から切断しアート化するわけでその意味では近代合理主義に真っ向から離反する反モダニズムである。しかしその双方が建築の座るその「場」を条件として組み込む姿勢を見せないという意味で共通するところがあった。
これに対し、こうした敷地から切れた建築への反省が、コンテクスチャリズム、リージョナリズム、クリティカルリージョナリズム、という形で建築を思考するツールとになってきた。
建築は建築の外の世界とどうつながるジェスチャーを示せるのか、建築に問われている大きな問題なのだが、それは、外の世界の何とつながるのか、周辺の問題とは何なのかというテーマの選択へと話がずれ込んでいくのである。
I 宇宙船建築の系譜
1)グローバルアーキテクチャー II 所謂きのこ建築 1)建築家なしの建築 III 宇宙から飛来したきのこを目指して 1)法律 ガエハウス
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第9講 関係の規則 親父とお袋 – capacity
Miami Beach”
The Americans
僕の先生である篠原一男の住宅を故宮脇壇は「パジャマでは歩けない住宅」と表し、篠原の逆鱗に触れた。篠原の住宅は「芸術」であり、その空間にはその空間にしつらえられているもの意外の混入は許されない”exclusive”なものだった。「そんなの住宅じゃないでしょう」という捕らえ方もあろうかと思うし、「そんなところで生活できるの?」という疑問もあろうかと思うけれど、実際に篠原の住宅に行ってみると住人はきれいに、そしてきちんと「生活」しているのが分かる。それになにより確かに、この研ぎ澄まされた空間に邪魔なものはおきたくないという気になる。それほどその空間は美しいからだ。
さてこの美しさに今をときめく伊東豊雄や坂本一成は一時しびれていた。だから、彼らは師匠を超えるために様々な作戦を立てたが、やはり初期の作品はこうした”exclusive”な空間に引き寄せられていた。中野本町の家など僕は高校時代に今は廃刊となった「都市住宅」で見て、「これは果たして建築か?」と思いつつもその美しさに声が出なかった。本物を見せてもらった時はとにかく感動した。「これぞ建築だ」と思ったものだ。
さてしかし、そもそもこうした”exclusive”で頑固な建築、言ってみれば親父的な建築を作ることは彼ら若い(?)世代の建築家の本意ではなかったし、なんとかこの魔の美しさから逃れようとしたのである。僕は伊東豊雄のシルバーハットができたての頃、氏とお話をする機会があったが、「こんな格好悪いもの作っちゃった」と嘆いていたのを今でも鮮明に覚えている。規律正しく、厳格な親父建築から逃れ、しなやかで、やさしく、軽やかなオフクロ的建築をまだその頃の伊東は頭で作っていたということだ。
オフクロ建築とは、では、格好悪いのか? 格好悪いというより、どこにあるの、それ?という感じがオフクロ建築の妙だ。それこそ、一昔前のオフクロとは、親父の3歩後ろを空気のように寄り添って歩いていたのである。そうしたオフクロみたいな空気みたいな建築が本当にできたら、そんな建築はちょっと怖い。
I 親父建築の起源
II 元祖親父建築
−ミース・ファン・デル・ローエの均斉
III 親父建築は美しい
−篠原一男と形式性
a, 上原曲道の家
b, 白の家
c, 谷川さんの住宅
d, 篠さんの家
IV 親父建築2
−内向きな男建築
1)坂本一成の閉じた箱
a, 水無瀬の町家
b, 雲野流山の家
c, 計画 N
2)伊東豊雄の閉ざされた内部
−中野本町の家
V オフクロへの転進
−しなやかで包み込む建築
1)坂本一成の解放
a, project k
b, House SA
c, Hut T
2)伊東豊雄の風の変容体
a, シルバーハット
3)ミース・ファン・デル・ローエの均等
a, Crown Hall IIT
VI オフクロの行く末(強いオフクロ像)
1)ダーティーリアリズム
2)構造力
《参考文献》
[A]…講義の理解を深めるために是非一読を(入手も容易)。
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第8講 関係の規則 人間と妖怪 – parts
“Identical twins, Roselle, N.J.1967”
An Aperture Monograph
建築に限ったことではないのだが、表現行為とは、およそ、その全体性を構築することから始まる。文章を書くのだって、絵を描くのだって、全体の構成なり構図なりがあって、それを決めてこれからやることの全体観をつかむのが最初である。 建築などその最たるものでその全体の輪郭線を決定するのに建築の歴史が始まって以来、様々な手法が編み出されてきた。その多くは比例理論というものであり、そしてその大半は人体の大きさを基本にし、数学的に比例関係を作り上げるものであった。さてしかし、この全体性に異を唱えた人がいた。原広司である。その透徹した論理で建築を常に牽引してきた氏の30年近く前の著作『建築に何が可能か』の中で氏は全体から部分へ向かう建築の作り方に抗して、部分から全体へ向かう作り方を提唱する。 その時、彼の考えをサポートしていたのはこともあろうにコルビュジェであった。もちろんモダニズム建築と言うのはそれまでの様式建築のもっていた比例理論を廃し、「Form follows function」をそのバックボーンにおいたのだから分からないではない。しかしコルはモダニストの中では数少ない比例理論の継承者であった。言うまでも無く、『モデュロール』が彼の比例理論の集大成である。科学的な近代人を目指すコルビュジェにとって全体は科学的に決まらなければならなかった。しかし、彼は一方でアンビバレントに部分部分を別個に作り上げる、部分建築の作り方としての「近代建築の5つの教え」をも開発したのである。 さて、かく言う自分にとっても建築部分論は魅力的である。それは表現形式の中でも建築が持つ特性に起因する。それは建築の内外性である。内外性とは(僕の造語だが)、建築は彫刻と違い、外側と内側があるということだ。そして、この二重性が部分を強く浮上させる。 全体性は確かに、外側からは見渡せるものだが、内側からは認識しづらい。そして内側に入ると、部分が五感を刺激する一方、全体観は把握されにくい。建築は人との間にこうした関係を結ぶ宿命を持っているのである。つまり、部分は建築体験の半分を担う表現の強度を内在させているのである。 |
《参考文献》
[A]…講義の理解を深めるために是非一読を(入手も容易)。
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第7講 関係の規則 重箱と平皿 – flatness
アート界では村上隆が東浩紀の援護射撃のもとスーパフラットを唱え、社会を見渡せば、右へ倣えで、どの会社も明確なヒエラルキーを消しフラットな組織作りを目指している。価値の多様化を尊重すればお山の大将は不要であるどころか悪であり、堅固な真実を歌うほど時代遅れに見えることはない。
だから建築も平らにという理屈は分からないではない。建築は社会の鏡なんだから。
しかし、建築ってそんな簡単に社会の鏡か??会社の組織論と同列の地平で語りうるのか??そうした疑問が実はこの何年か僕の心の奥にあった。
そして最近これは違うと思い始めた。社会やアートが平らだから建築が平らなのではない。建築が平らなのは別の理由からだ。と。
そう思うきっかけを作ってくれたのは、コールハースの”generic”という概念である。つまり普通ということ。あるいは無印ということ匿名的ということ。コールハースのこの概念自体はおそらく10年以上も前に彼が世界の大都市を見ながら唱えていたことであるから別に目新しいものではないし、そうした概念の延長上にミースをおいて、だからミースはかっこいいと言っていた訳だ。
コールハースの言うことがいつも正しいわけではないけれど、ここのところの時代のつかみ方は共感できる。つまり現在の都市の楽しさのひとつには自分を溶解させられ、自らの主体を匿名化できる都市の空気のありようが挙げられる。ネット社会の匿名性にも通ずるのだが、こうした「僕責任とりません」的な安易さにも後押しされながらも、現実と虚構の狭間を浮遊する快感はこの匿名性無しには得難いものである。
そして建築は、この匿名性を求めて動いた。その先にある快感を欲した。それがいつの時代でもそうであるかどうかは分からないが、アフタポストモダニズムの建築界ではその方向に建築は動いたのである。動かした力は繰り返しになるが、地滑り的な快感への希求である。
さてそれでは匿名性の建築とは何なのか?建築でそれを作ろうとしたときに、現代においてそれを求めたときに、それは何であり得るのか?コールハースが言うまでも無く現在の建築で最も匿名的なものはカルテジアングリッドである。近代的合理性という亡霊は未だこの世を跋扈し、否定する素振りの仮面の下に常に見え隠れしているのである。カルテジアンなこと。この普通さが匿名性を求める建築の向こう側に置かれたのである。
くりかえすが、時代がフラットだから建築がフラットになったのではない。匿名的な快感を求めたからカルテジアンなフラットな建築が登場したのである。
−機能主義建築の系譜− ワーグナーの目的建築論
a, コンサヴァウィーン
b, 原広司の分析
II 重箱モダニスト1
−重箱ミース
−zoned plan
i. 矩形の箱の分解
ii. 諸機能の独立と最適な位置への配置
III 重箱モダニスト2
1)重箱コルビュジェ
a, コルビュジェのドローイング アクソメの多用
b, デ・スティールのドローイング
【コルビュジェ建築の古典性】
IV 重箱モダニストの変貌
1)変貌への契機 −「近代の純化」 フラットプラン
V 非機能性の土壌
−当時の抽象絵画の流れ
a, バウハウス −バウハウス叢書
b, ヴォリンガー 『抽象と感情移入』
VI ちょっと休憩 重箱の巨匠 ルイスカーン
−サーブドスペースとサーバントスペース
VII 現在の平皿1
1)ミースは残ったか?
a, ジェンクスによる攻撃 『ポストモダニズムの建築言語』
b, ポンピドゥーの目指したもの
c, コールハースの登場 −匿名性の評価
d, 妹島和代の目指すもの −固有性の排除 匿名性の自由
VIII 現在の平皿2(重箱的平皿)
1)自由からの逃走?
a, 坂本一成の段々畑
b, 西沢立衛の坪庭建築
《参考文献》
[A]…講義の理解を深めるために是非一読を(入手も容易)。
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