第10講 オーダー Order

1、部分と全体の関係を通じて美を達成すること

1.1Vitrivius

建築は、ギリシア語でタクシスといわれるオールディナーティオー[オーダー]……から成り立っている。オールディナーティオーとは、ディテールを個別的に整えていくことであり、全体としては均整のとれたものとなるように比例的な整理を行うことである。

アリストテレスの「タクシス〔taxis〕」という概念に由来

1.2 Aristotle 『形而上学』 『詩学』第七章

「美の主たる形相は{秩序|オーダー}、{均斉|シンメトリー}と限定された大きさによるものであり、これらは数学的な科学がとくに強く表しているものである」

「生物であれ、いくつかの部分から組みたてられているどのようなものであれ、美しいものは、これらの部分を秩序正しく配列していなければならないばかりでなく、その大きさも任意のものであってはならない。というのも、美とは大きさと秩序にあるからだ」。

1.3 建築は何に秩序を与えるのか、何に由来するのか

物質なのか?空間なのか?流れか?知覚か?それとも社会的関係なのか?秩序が何に存しているのかが言いえて始めて秩序の概要を作ることができる

もしわれわれが建築に「{秩序|オーダー}」を見いだすとすればまず抽象として認識したものを改めて物として再構成し直すこと

 精神・

数学 

自然 カトルメール・ド・カンシ-

結晶と鉱物組成 ジョン・ラスキン

動植物の成長パターンダルシー・トンプソン

1945年以後 オーダーへの関心は知覚心理学、人工世界の秩序において鍵となる人間の知覚研究へと移行

2、社会階級 序列 の表現

 2.1decorum ふさわしさ

Vitrivius 『建築書』第五章第六書

「それ故この方式に従ってそれぞれの種類の人たちに対し、……建物が配置されるならば、批難されるようなことは一つも起こらないであろう」

2.2 Wotton, Hの『建築の原理』(一六二四)

「それぞれの人物にふさわしい大邸宅・住宅は主人の階級に応じてふさわしくまた魅力的に装飾されるに値する」

 

「デコールム」がこれだけ敏感な問題となったのは、十六世紀の住宅建築の奢侈を巡って展開した社会的言説が原因である。一方で財産を持つ者(とりわけ政治的な職務を占める場合には)は贅沢に建設する義務があると考えられた。他方で、壮麗な建物は社会的地位の低い人々の妬みを掻き立てる。彼らの上流階級の奢侈を真似ようとする傾向が、最初にあった階級差を解消してしまい、社会的ヒエラルキーの存在すなわち市民秩序を脅かしたのである。このような緊張関係は十六〜十七世紀のヨーロッパの至る所で感じられた。このような要求を規制するため、すなわち社会的ヒエラルキーを守るために「デコールム」——施主の地位にふさわしい建築装飾の形式——という概念が発達したのである。フランス革命の後デコールムへの関心は衰退する。おそらく社会階級を守るための役に立たないということが証明されたからだろう。二十世紀にも何がしかの意味を残していたデコールムだったが、それすらもラッチェンスのような建築家によって最後には一掃されてしまった。彼はブルジョワ向けの小住宅を貴族の大邸宅の様式で建設したのである。

2.3Bentham, J パノプティコンの計画

「厳格な規則性の感覚」を生み出した。一七八〇年代後半に練られたパノプティコンは、それがなければ秩序のない混沌とした世界のなかに、秩序ある関係を再建するべく計画された建築のもっとも明快な実例である。

 

4、都市の無秩序を制御すること

4.1誤解

都市には秩序があり、さらに規則正しい外観を与えられた建物・街路・広場をもつ都市は秩序をもっていると考えられていた。この考え方の芽はアルベルティのなかにある。しかし言っておかねばならないのは、外観が秩序づけられているように見える場、社会には秩序があり、規律正しいという仮説は、近代の誤謬の最たるもののひとつであったということだ。しかしながらこの誤謬はアルベルティからオスマン男爵、ダニエル・バンハムそして一九五〇年代から六〇年代のマスタープランナーに至るまで都市計画の唱道者たちによって当然のことと思われてきたのだ。たとえばサント・ペテルスブルクやパリの二十世紀の歴史は、物理的秩序をもつ場所は政治的に安定しているなどという主張に根拠などないことをただちに明らかにすることになる。

4.2 Venturi, R 『ラスベガス』

ほとんどの人々が混沌だとして退けている都市の光景も、注意深く見つめるならば実際にはある秩序が明らかになると主張しているのである。「おそらく卑俗で蔑視されている日常の景観からこそ、われわれは複雑で対立する秩序を引き出すことができる。その秩序はわれわれの建築に対して都市の全体としての根拠と活力となるに違いない」(10これが『ラス・ヴェガス』で追求されたテーマである。

 

5、無秩序への関心

 5.1 Aalto, Aウォルフブルグ文化センターWolfsburg Cultural Centre

異なる各部に対してそれぞれ別個の幾何学システムが適応された建築として興味を引いた。ヴェンチューリはディミトリ・ポルフィリオスによる長さについて書かれた文章の中でこの建物についてコメントしている——けれども、多様な内部空間とは異なり、全体的な形式は強く統一されている。

5.2 Le Feabvre

ルフェーブルは近代世界で顕在化している還元主義的なあらゆる思考形式——ひとつの概念を特権視しすべてをその概念に適合させる傾向——に批判的であった。専門家が展開する還元モデルはとりわけ危険なものであった。なぜなら、ある実践の枠内にのみ適用されるとき、専門家が強制する秩序には自己正当化と自己目的化が伴うからである。「アーバニズムと建築とはこのよい例を与えてくれる。労働者階級はとりわけこのような『還元されたモデル』——空間・消費・いわゆる文化モデルも含む——の結果に苦しんでいるのである」。

5.3 Tschumi, B

 チュミは「秩序」はまったく放棄すべきものだと主張したのではなく、たんに「秩序」には疑問の余地があると主張しただけだと。そして他の「秩序」を全く欠いているように思われる建築家——コープ・ヒンメルブラウやモーフォシス——がどれほど自分たちの建物のデザインと建設プロセスを秩序のない包括的なものにしようと努力していても、開放系ではあるにせよ「秩序」に驚く程強い執着をもっているのである。モーフォシスのトム・メインは、一方で建築はその不完全性によってモダン・カルチャーの流れを反映すべきだという考えを指示しながらも、他方では「われわれに重要なことは一般的で多義的な一貫性あるいは秩序を規定し、そのなかで創ることである」と主張するのである(8)。最近の建築評論家であるポール=アラン・ジョンソンは、「今日多くの建築家にとって、建築における秩序はあまりに周知のことなので、改めて関心を抱くほどではなくなっている。」(240)と述べている。しかしたとえ「秩序」が三〇年前に比べて語られることが少なくなったというのが事実だとしても、それは秩序が「あまりに周知のこと」になったからではまったくないのだ。むしろその理由は秩序について語ることがあまりに難しくなったことにある。なぜならば秩序が提起する問題はあまりに広くまた危ういものだからだ。もし建築が「秩序」を創造しないならば、もはや建築などまったく必要ないだろうし、環境の変化のプロセスはなすがままに任される。しかし建築がもし「秩序」の産出に関わっているのなら、自らの手には負えない広範な領域の影響を受けることになる——すなわち「文化」という名のもとで、経験が純化され、変形され、還元された形でわれわれに送り返されるプロセスのうちに建築も巻き込まれることになる。このような状況で初めて、なぜ建築家が「秩序」の問題について沈黙を選ぶのかがよく理解されるだろう。

第9講 自然 Nature

1、 建築における美の根源としての自然

1.1 Plato 『ティマイオス』対話篇

建築における美の議論の源流となるモデル。

自然の中のものはみな数的比例ないし幾何学に支配されるというプラトンの考えを持ち出して、新プラトン主義者たちは人間精神を満足させる限り、芸術は同じ原則に従うと議論

1.2 Alberti L.B.『建築論(建築十書)』15世紀中期 

均斉〔concinnitas〕(各部に関して、また全体に関して、諸部分の優美な配置を基礎づける調和の原則)の理論を説明づける箇所で、建築のモデルとしての自然の意義が明らかになる。

「 全体においても諸部分においても、均斉は自然自体においてと同程度には広がらない。……自然が生み出す全ては均斉の法則に規定され、自然の主要な関心とは、何であれ自然が生み出すものは絶対に完全であるべきだということである。……このように結論しよう。美とは、一定の数、外形、位置による、本体における部分の共鳴と調和の形式であり、均斉、つまり自然における絶対で根本的な規則が命じるとおりである。これは建てる術の主要な目的で、その尊厳、魅力、権威、価値の源である」

1.3 Perrault, C『五種の柱の配列』(一六八三年)

建築美が自然に基礎づけられるという考えへの最初の明らかな挑戦。建築の比例関係に対する自然の優越をペローが否定したのは、実際、顕著で徹底しており、以後二世紀以上にわたる、建築と自然の関係に対する、根本的な再考の先頭を切った。

「 自然の模倣も理性も良識もけっして、柱の諸部分の比率や{規則|オーダー}通りの配置に見られると主張される美の基礎を構成しない。実際、それら諸部分から与えられる快には、慣習以外の源を見出すことができない。」

ペローの議論は、美が対象に宿るとの考えの最終的な終焉、そして美が見る主体の構成物であるという考えへの交替、これらの嚆矢となった

 

2、建築の根源

2.1Vitruvius『建築書』第二書第一章

建築の神話的な根源が述べられている。これによりルネサンスとルネサンス後の理論家たちは幅広く、ときには大胆に、始原の建築の形態について思索を凝らしてきた。

 

2.2 Filarete(一四六〇〜六四)の試論

最初の建物は木の幹で造られた小屋であり、柱の根源の形態を与えたと提言

 

2.3  17世紀後期

始原の建物やオーダーの根源に関するウィトルウィウス的な神話(『建築書』第四書第二章)は建築を人類の最初の「自然な」状態に結びつける手軽な根拠を与えたため、ルネサンス期の建築に関する書き手たちに人気があった。

 

2.4 18世紀

英雄的な原始の建築者というウィトルウィウス的考えはもはや真剣に受け取られず、単なる迷信とみなされ、建築の神話的な根源という物語が主張しつづけられたが、それは全く異なった目的、つまり建築を理性的な体系とする考えを示すために役立っていた

—Laugier  M. A.『建築試論』(1753年)

著書の中で彼の素朴な小屋を見失わず、それが表現する諸原則にしたがって論じる建築術のあらゆる面での利点を主張

 

3、建築の価値安定化──「ミメーシス」または自然模倣

3.1      古典の著者たち

(特にキケロやホラティウスに見られる芸術理論において根本的な考え)

—自然を模倣する能力であるということ

しかし建築は再現的な芸術ではなかった。建築は自然の物体を再現するのでも、詩作のように人間の気分や感情を再現するのでもないから。

つまり建築に内在的な、自然を再現することの不可能、またしたがって模倣的芸術と認定することの不可能は、建築が自由学芸として受け入れられるにあたり重大な障害だった。

 もし建築家が詩人や画家と社会的に同等の間柄に立ち、自身を建築職人と十分差別化しようとするなら、建築は自然が表現される芸術だと証すことが必要。 15世紀末から18世紀末にかけて、この問題は建築思想において主要な関心事

 

 →これに関しては二種類の議論

?      建築がその自然のモデル(= 仮想上の原始の建物 )を模倣すると主張

建築が材木や皮革を石材に翻訳しながら小屋やテントの形態を再現するかぎり、それを自然の模倣と呼び得た。

?      建築が自然の表面的な外観を再現しない一方で、自然本来の諸原則を再現できただけでなく実際行ってきたし、自然の再現が直接的で文字通りであるような他の芸術ジャンルより、その意味でもっと深遠なミメーシスの形式をもたらした、というもの、自然の再現に対するこのアプローチは十八世紀後半に集中的に精緻化した。これによって初めて建築家は、自分の技術がたんに他の芸術に等しいだけでなく、むしろ優っていると主張できた

3.2カトルメール・ド・カンシー

建築が模倣であるとのダランベールの提言を擁護し、建築がいかに自然を模倣するかについてロージエより説得力のある説明を提示する

・カトルメールの出発点

 建築が模倣するとされる「自然」は物理的な物質の世界をいうのか、その世界について人々が抱く観念を言っているのかという問い

彼の答えは、両方だというもの

?                      木造建物の石による文字通りの模倣

?                      自然物に見られる秩序と調和の原則の類比による模倣

 

4、芸術における自由を正当化する際に持ちだされた自然

4.1古代ギリシアの哲学

自然と芸術との差異は、アリストテレスが述べたように「芸術は自然が完成に持ち込めないものを部分的に仕上げる」こと

4.2 16〜17世紀イタリア

自然がつねに創られたものにおいて不完全だという考えがますます芸術における思考で優位を占め、自然のモデルから離れる芸術家の自由を正当化

16世紀のミケランジェロとヴァザーリ

17世紀 ベルニーニ

4.3その後のフランス、イギリス 

芸術は自然を凌駕する。

この考えは庭園設計では効果がとくに明確

・ヴィラ・ランテなどの十六世紀イタリアの庭園

・ル・ノートルによるヴォー=ル=ヴィコント

・ヴェルサイユのような十七世紀フランスの庭園

 

5、政治的理念として──自由として、制約の欠如としての自然

—自由で気取らないものとしての「自然」という現代の意味

イギリスの哲学者の手になるこの意味の展開 →ヨーロッパの専制政治、特にルイ十四世の体制が解放、言論の自由などの「自然」権を否定したと受け取られたものへの反発

特に美学的な次元での展開はロード・シャフツベリによって初めて解説『モラリスト』(1709年)

「 私はもはや自らのうちにの種類の〈もの〉に対する〈情熱〉が増していくのを禁じえない。技芸も〈人間〉の奇想も気まぐれも、そうしたものの本物の秩序を、かの原始的な状態に割って入ることで台なしにはしなかった。粗野な岩石、苔むす洞窟、不規則で手の込んでいないグロット、砕かれた滝さえも、野性そのものの恐ろしい〈魅力〉がありながら、〈自然〉をかえってよく表すものとして、ますます人を引きつけ、〈王侯の庭園群〉の形式張った茶番を超えた〈壮大さ〉をもつようにみえるのだ。」

 

6、観者の知覚の構成物としての「自然」

6.1 Hume, D

「 美はもの自体にある質ではない。ただ単にそれを観想する精神に存在する。そしてそれぞれの精神が異なる美を受け取る 」(1757)

ジョン・ロックの伝統に連なるイギリスの哲学者達に継承

そして芸術への適用

6.2 Burke, E『崇高と美の観念の起源』(1757年)

建築において、18世紀中期にもっとも広く読まれ広範な影響力を持ったテクスト

ペローと同様に、美しい建築の比率は自然物や人間の形体に由来するという考えを捨て去った「人体が建築家にいかなる指針も与えないということは私には明白である」と記した。

 

7、「第二の自然」としての芸術

7.1Goethe

ゲーテにとって、解剖学と植物形態学の研究こそが、彼が芸術と自然との関係について理解を広げる際に影響

「自然を全体であれ細部であれよく見ると、私はいつもこう自問する。ここに表現されているのは対象なのか、お前なのか、と。……現象は観察者からけっして分離できない、むしろ観察者の個性に編み込まれている」

つまり芸術作品の質とは、それが生きる精神の産物であり、作品を見ることは生きる主体の積極的な知覚の関与をともない、その点で、芸術はその形成においても受容においても、双方で自然のようであった。ということ

「ドイツ建築について」(1772)

ロージエの理性主義的な「自然」概念に対する攻撃。作品が人間の表現への本能の所産であることに建築作品(この場合ストラスブールの大聖堂)の力が存すると提唱

7.2 Semper, G・Ruskin, J

彼らは建築が自然に何らかの類似点を持つものの、それ自体は自然ではないというゲーテやドイツの哲学者によってなされた区別を完全に受け入れていた

Hegel, G・W『美学』(1835年)

建築は「明らかに人間の手によって建てられた無機的な自然であり」、「内在する精神によって特徴づけられ生気づけられる」有機的な自然と区別されるのである

・ゼンパー

建築の根源が自然にないことを力説(1834年ドレスデンにおける就任演説にて)

「建築は他の芸術ジャンルとちがい、手本を自然に見出さない」代わりに

「工業技術が……建築ないし芸術の形態と規則一般を理解する鍵である」

したがって、ゼンパーの記述のほとんどはまったく建築に触れることなく、製織、陶芸、金属加工、大工術、石工術を取りあげた。

もっとも単純な原型の形によって展開し説明されるすべてのものと同じように、限りなき多様性がそれでも基礎の観念において単純でわずかであるような自然におけるように、自然が繰り返し同じ骨格を何千と修正することで新しくしてきたのと同じように……それらと同じように、自分の芸術作品もまた、根本的な諸観念によって条件づけられた一定の標準形態に基づきながら現象の無限な多様性を許すものだと、私は自分に言い聞かせる。(「建物の比較理論の趣旨」一八五二年、ゼンパー『四要素と他の記述』170)

 

・ジョン・ラスキン

英国のピクチャレスクを同じドイツの哲学学派の理論に注入すること。自らの極めて宗教的な見解によって、自然を神の作品と見なし、そのため英国の風景画への崇敬と併せて、自然は唯一あらゆる美の根源であると固く信じるに至った

・『近代の画家』(1843)における画家への提言

「心をまったく純真にして自然へ赴き、苦労しつつも信頼して自然と共に歩み、自然の意味を見抜くのがいかに最高であるかだけを考え、その教えを覚え、何も拒まず、何も選ばず、何も軽蔑しない」こと

・『建築の七灯』(1849年)における建築家への助言

「建築家は画家のように、都市で長く生活するべきではない。建築家を我らが丘に送りたまえ、そこで自然ではバットレス、ドームがどう理解されているのか、学ばせよ」

 

8、「文化」の解毒剤としての自然

— Emerson, R.W.

自然は文化の人工性に対する抵抗の手段であるとの考え

 彼の自然観

8.1.1.ゲーテとイングランドのロマン主義詩人からの影響

1830年代に人間の精神の力によって表された事物の質として自然をみた 「その美とは人間自身の精神の美である」(1837, 87)。

8.1.2 自然のうちに超自然的なものの啓示をみる

「あらゆる自然における事実は霊的事実の象徴である」(1836, 49)。

よって自然を用いて、人間は自身の精神的存在を自覚

「正確に捉えるとすべての対象はまさしく魂の新たな能力を解放するものとなる」(1836, 55)。

8.1.3 アメリカで考えられた思考だという背景

1837年、彼は「われわれはあまりに長くヨーロッパの優雅なミューズに耳を貸してきた」(104)と不満を述べ、アメリカ人はその着想を日常の、そして自然の、直接経験から求めることを示唆

この日常の経験とは、部分的にはアメリカ人が歴史に条件づけられることなく自然環境と直面するということであり、またそこから生の哲学、芸術の哲学が生じるということ

 

9、自然の拒否

 一般にヨーロッパの思考において、ダーウィンなどによる自然科学自体の発達に伴い「自然」への関心は19世紀後半において著しい下降線を辿る

9.1 Baudelaire, C 『現代生活の画家』(1863)

「自然が我々に教えることは何もない」

「自然は罪悪以外なにものも促さない」

9.2 Nietzsche, F『悲劇の誕生』(1872)

自然と芸術との本質的な峻別は彼の生涯を通じた主題

「芸術は自然の模倣ではない。むしろ自然の傍らで育まれ自然を乗り越えるための形而上学による増補である」

9.3 Marx,K /Engels, F

二種の自然を仮定

?                      そこから材料を採られるという自然

?                      人の営みの結果として作りだされ、日用品となる自然

十九世紀末葉までには、特に「{近代|モダン}」を信奉した建築家に対し、自然は何も与えるものがなくなっていた。

9.4Wagner, O

建築が特別に持つ質とは「それだけが自然に全く規範を置かない形を作りうる」「その産物〔建築物〕をまったく新たに形作られたものとして示しうる」

この観点は、ゴットフリート・ゼンパーの議論からの系譜

二十世紀初期のモダニズム建築の特徴的な態度&広く建築に関する思想を支配するもの

 

9.5 Woringer, W『抽象と感情移入』(一九〇八年)

もし「自然」がもはや建築について整理して考える際に役立つカテゴリーとして用がなくなったならば、その代わりは何だったのか?という問題をすべての視覚芸術にとっての一般的な問題として認識。彼の考えた芸術は決して自然を表象しないし、第二の自然でもないし、自然を参照することで価値体系を引き出すこともない。むしろ、芸術は「自然と同等の地位で並び、そのもっとも深く内奥にある本質において、自然を事物の目に見える表面として理解する限りでは、自然と何ら関係を持たない」

 

9.6 二十世紀建築のその後

9.6.1 イタリア未来派

− 1914年の未来派建築マニフェスト

「古代人が自然の要素から自らの芸術の着想を引き出していたのと同様に、我々は……この着想を、我々が作りだしたまったく新たな機械にみちた世界の要素から見出さねばならない」

→ 技術にこそ建築が規範を見出すという考え

= 間違いなく二十世紀において「自然」に代わる唯一もっとも重要な考え

 

 9.6.2 モダニズム建築家において、自然を否定しなかった例

フランク・ロイド・ライト・ル・コルビュジエ

・ライト

「第一に、自然は、我々が知っているような建築形態が生み出された建築上のモチーフのために、材料を供給する」

→ 次の世代のアメリカ人建築家、ルイス・カーンがあえて「自然」を斥けたとき(「人が作るものを自然は作れない」)、これはある意味でアメリカ人がヨーロッパの伝統に明らかに再び取り組んだことの現れだったといえる

・ル・コルビュジエ

→ 彼の初期の教育は、自ら読んでいたラスキンに多大な影響を受けていた

∴ 未来派による機械時代の比喩表現の方に入れ込んだ一九二〇年代の合間を除けば、ラスキンに着想を得た「自然」への情熱がつねに現れていた

 

10、環境主義──生態系としての自然と資本主義批判

10.1 環境運動

・建物はエネルギーを過度に使用し、生態系の微妙なバランスに多大な影響を与えているという認識。建築〔行為〕は将来の地球上の生命に影響を与える実践。 リチャード・ロジャース

「建築には自然との対立を最小化する必要がある。このためには自然の法則を尊重せねばならない。……建物を自然の連鎖の中に入れることで、建築はまさしくその根源に立ち戻るだろう」(1997)

 

10.2 資本主義批判

生産という社会関係から人類と「自然」との関係に転換。

この議論は少なくとも環境保護運動の基礎の一部&国際規模の資本主義への批判を支えてきた。同様にこの議論は、工業生産の主流の外にある技術や過程を用い、支配的な政治的経済的秩序を批判する意図で、「代替的な」建築の開発を刺激

 

10.3 環境主義

「自然」を建築上の特質の新たな基準としたかもしれないが、「建物を自然の連鎖の中に入れる」とは何を意味するのかについては全員一致からはほど遠い。「地球にやさしい」建築に適切な材料とは何かについての多様な意見によって、この見解の相違がわかる。環境主義の浸透とそれが生みだすたくさんの矛盾が、ほぼ確実に、「自然」が建築において有効な──争点ともなる──範疇であり続ける

第8講 記憶 Memory

序 概説

1)       どういった意味で建築が持つ_感性的美_の一部を記憶が構成しているのかまったくはっきりしないのであり、そもそも記憶が感性的美に属しているかどうかは実に疑わしい

2)       「歴史」と「記憶」との違いはいつも明確であるとは限らない。

3)       三つの歴史的段階(20世紀のピーター・アイゼンマン、19世紀のジョン・ラスキン、18世紀のホレス・ウォルポール)それぞれにおいて、「記憶」は異なる意味を持っていた

4)       建築家と都市計画家が、特にポストモダンの時代に、「記憶」に熱狂した部分的な理由は、古代以来、哲学者や心理学者が建築や都市を、記憶の精神過程における現象を説明づけるための隠喩として用いることが定式化されていたことと関係

ex1)ジークムント・フロイト (Freud, G)

『文化の中での不満足感』

→ 精神の内に蓄積する素材が保存されることを描き出すためにローマを用いたのだが、それに続けて、他の点ではこのイメージが精神の心理機構との比較に適していないことを強調

→ しかし「永遠の都市」や記憶の地としてのローマについて多くのことが語られることが止むことはなかった

ex2)歴史家のフランシス・イエイツ(Yates, F. )『記憶術』

→ 建物と記憶とが結び付いているという想定を何よりも後押し

→ 長い弁論を記憶する手段として記憶宮や記憶劇場を用いる古代の記憶法  を再発見

→ しかし建築それ自体が「記憶術」の一つだとする歴史的権威に基づいたさらなるこじつけの主張がそれだけで正当化されることはほとんどなかった。

以上を始めとする様々な点で「記憶」という概念が複雑さを孕んでいることは、「記憶」を建築のカテゴリーとして考える上で、考慮しておかなければならない

 

「記憶」に関する三つの歴史的段階

1、 18世紀

建築の、そしてその他の芸術の感性的美における要素として記憶が最初に現れてきた記憶がその時代に現れてきたのは、知識の増大による断片化や、文化と文明の全体性が失われてしまうという感覚に対して、記憶が抵抗の力を持っているように思われたためであると一般には考えられている。芸術作品に対する反応のひとつの相である「記憶」を涵養することが、何らかのかたちでの回復につながるという希望を与えた。

 

1.1 「記憶」の発見の起源

Locke、J 『人間知性論』(1690年)

精神過程についての説明(記憶が個人に与える知覚の自由は、ロックが他の著作の中で市民に訴えかけていた政治的自由と一致)に始まる

Addison,J『スペクテーター』(1712年)

「想像力の快感」についての一連の記事

「快感は単に視覚をはじめとする諸感覚から得られるだけではなく、想像上のものをじっくり観想することによっても得られるものだ。・・・想像による第二の快感は、様々な対象物そのものから生じる観念と、それらの対象を再現する彫刻、絵画、記述、あるいは音声から受け取る観念とを比較する精神作用から発する」

芸術作品の力は作品が喚起する観念同士の連関〔association of ideas 観念連合〕に由来するということ

「私たちの想像力は……不意に、都市や劇場、平野や牧草地へと私たちを導いていく」、つまり、知覚に現前しているものからはあまりに遠すぎる土地へと私たちを導いていくのである。「そのように、空想の中に過去に過ぎ去ってしまった風景が浮かんでくるとき、当初見たときに心地よかったものは、さらにより心地よいようである。記憶は対象そのものが持つ歓びを高めるのである」

 

1.2 18世紀のイギリス

前半には、庭園建築、廃墟、そして彫刻の目的が特定の記憶や連想〔association〕を喚起することに置かれる傾向

例 ストーの庭園

後半にははっきりとした変化が起こり、これまでとは全く異なる、規定化されていない連想へと移行した 

トーマス・ホエートリーの著書『近代造園術についての批評』(1770)

象徴的な連想のモードから表現的なそれへの脱却として描写。自然の風景は、特定の指示対象なしに、あらゆる個人の中にそれぞれ異なる観念の連鎖を生み出し、その連鎖自身が美的な快感の要因となるだろうと考えられていた

 

1.3 18世紀末のイギリスにおける美学

1.3.1精神活動の三つに区分された段階——対象の直接的な認知、記憶、そして想像——の間の関係は主要な論点の一つ

Kames, Lord 『批判主義要論』

「私たちが住む世界を満たす事物は、その多数であることのみならず多様であることにおいても特筆に値する。これらは、精神に多くの知覚を与えるのである。知覚は、記憶の、想像の、そして反省の観念と結び付けられて、切れ目や隔たりのない完全な連鎖を形作るのである」

 

Allison,A. 『趣味の自然本性と諸原理についての試論』(1790)

「私たちの観念がより増大すればするほど、あるいは私たちの知覚がどんな主題をも取り込むように広がっていけばいくほど、私たちがそれに結び付ける連想の数は多くなり、我々がそれから受け取る崇高や美の感情も強くなるのだ」

 

Payne, Knight, R. 『趣味の諸原理についての分析的考究』(1805)

記憶は、「増進された知覚」へと至る手段を与えるもの。記憶は対象物が喚起することのできる観念の範囲を拡充「あらゆる知性による快感は、観念連合から生ずるのであるから、連想の構成要素がより複合的になればなるほど、そのような快感の得られる圏域も拡大する。知性豊かな精神にとっては、感覚に現れるほとんど全ての自然や芸術の対象物が、諸観念の新鮮な連鎖や組み合わせを刺激したり、前からあったそれらのものを活気づけ強化したりするのである」

 

1.3.2観念連合の欠点

1)美的快感を、教養教育の恩恵を受けた人々のためだけにあるものとして大幅に制限

・アリソン

「疑いのないことだが、一般の民衆は、そのような対象物から、教養を身に付けた人々が感じるよりも非常に劣位な〈美の感情〉しか抱かないのである。現代の教育がいちはやく結び付けるような〈連想〉を、彼らはひとつも持たないからだ」

美的なものについての説明が、特定の個人の経験という偶然的なものにそれほど強く依存していては、一般理論としては説得力に欠けた

 

2)美的なものの所在を全て主体の精神過程の中に位置付けたこと

 ・ペイン・ナイト

「我々の記憶の中でひとりでに互いの連合を作り出す」様々な観念から引き出されるのであり、対象物との遭遇からではないということ。快感は、対象物が喚起する様々な想念の連想から引き出される。

ドイツで主にカントによって展開された美学哲学では、美的なものは、対象物の感受と対象を観る主体が感じる感情との_中間に_ある何かに関係していた。この伝統に与する哲学者達にとって、ただ精神の内部しか扱わず、また美的なものは意識的には制御できないとする説明は、あまり関心を惹くものではなかった。

このような理由から、「記憶」や「連想」といった言葉が、カントの哲学や十九世紀ドイツの美学哲学の中に居場所を得ることがなかった。イギリスにおいてさえ、「記憶」や「観念連合」は、急速にその訴求力を失っていった

2、19世紀 Ruskin、J.

2.1『建築の七灯』(1849)の六番目:「記憶の灯」

古くなった18世紀の連想の理論を取り上げて、より耐久性のある強靱な概念へと転換した

「人間の忘れやすさを力強く克服し得るものは二つしかない。すなわち〈詩〉と〈建築〉である」。この二つのうちでは、建築の方が優っている。なぜなら建築は「人間が考えたこと、感じたことばかりでなく、彼らの手が触り、彼らの力が働き、彼らの目が捉えたものをも」提示するからだ。言い換えるなら、建築だけが提供し得るものは人間の労働の記憶であり、それは手の労働と精神の労働の両方を含むからであった。古代建築の姿が触発する記憶とは、古き時代の美徳や自由、クロード・ロラン風の風景の回想といったありふれた題目ではなく、その仕事がどのような性質のものであるかについての実感であり、その建物が作られた際の労働の状況なのである。

 

2.2 ラスキンと十八世紀の彼の先人達の間には「記憶」という言葉についての差異

2.2.1ラスキンにとっては想起されるものとは精神的な想像作用の終わりなき連鎖ではなく、もっと限られた特定のもの、すなわち仕事であるという点

2.2.2記憶は個人的なものではなく、社会的で集合的なものであるとされる点

国民文学や国民詩と同じく、建築もまた国民建築として、ある国家が共有の記憶を通じてアイデンティティを確立するための手段のひとつとする

2.2.3「記憶」という言葉は過去にのみ関わるものではなく、現在が未来に対して有する義務でもあるとされている点

 

2.3 「記憶」という言葉についての考え

「歴史」という言葉についての彼の構想と深く関わっており、その二つを区別しようとしても得るものはない

2.3.1彼の考えの影響その1)

古代建築物の保存に対して詩と同じように、建築もまた特定の誰かや現在だけに属しているのではなく、全ての時代に属しているのだと強調→建築に対して現在が有する権利は所有者が生きている限りのものであり、その建築を後代のために守ることが現在に課された義務

「私たちが過去の時代の建物を保存すべきかどうかというのもまた、都合や心情の問題ではない。_私たちにはそれに手をつける権利は全くないのである_。それは私たちのものではない。一部はそれを建てた人々に属し、一部は私たちに続く全ての世代の人類に属するのである。」

2.3.2彼の考えの影響その2)

新しい建築よりも、むしろウィリアム・モリスと一八七七年設立の古代建築物保護協会〔Society for the Protection of Ancient Buildings〕によるイギリスにおける保存運動の進展に対して

(モリスは「記憶」という言葉を彼の政治思想の重要な一要素へと展開していくことになる。)

2.3.3彼の考えの影響その3

・オーストリアの美術史家アロイス・リーグル(Riegl, A.)によるエッセイ(オーストリア=ハンガリーの政府による古い建造物の保護のための提案の一部として1903年に書かれた)古代建築物の持つ記憶としての意義というラスキンの観念をさらに精緻にしたもの→彼は、人々が厳密にはそうした古い建造物をどのような点で価値あるものと見なしているのかについて問いかける。

?「歴史的価値」〔historic-value〕、すなわちその作品が何らかの歴史的瞬間についての証しを提示しているということ

?「経年的価値」〔age-value〕、つまり時間の経過という一般化された感覚とを区別→ 大多数の人々に関する限り、求められるのは経年的価値の方であると結論

 

→ エッセイを書いた頃には、「記憶」という言葉は既に攻撃にさらされていた

ex) 1874年 ニーチェの「反時代的考察—生に対する歴史の利害について」というエッセイにおける有名な記憶の排撃と忘却の称揚

「ほとんど記憶なしでも生きること[……]は可能であるが、忘れることなしにはおよそ_生きる_ことなど不可能である」と断言

 

3、20世紀 モダニズム

3.1モダニズム建築にとって——モダニズム芸術にとってと同様——作品の内的本質を減ずるものや、作品との無媒介的な対峙の外側にあるものは、侵入させてはならないものであり、作品にとってのそうした脅威の筆頭が記憶だった

Scott、G. )『ヒューマニズムの建築』(1914)

「〈ロマン的欺瞞〉」を攻撃するなかで、「ロマンティシズムは造形的な形態にはそぐわない。ロマンティシズムは、漠然としたものや記憶に浮かんでくるものに関わりあいすぎるので、徹底して具体的であるもののうちには自らの自然な表現を見いだすことができないのだ」と述べる。ロマンティシズムの{表現手段|メディウム}である文学の重要性と価値が存在するのは、主として、その直接の素材を構成する音の意義、意味、連想の中である。反対に建築は、主に直接訴えかけることで私たちに影響を与える芸術である。建築の重要性と価値は、素材や形態と呼ばれる素材の抽象的な配置に主に宿るのである……根本的に、この二つの芸術の言語は、まったく異なるのであり、正反対ですらあるのだ。

3.2文学

絵画、彫刻、建築などの造形芸術の中で記憶が否定されたが、モダニズム芸術の一つの形態——文学——の中では、記憶は主要なテーマ

マルセル・プルースト(Proust,M.)『失われた時を求めて』

忘れることなしに記憶は存在しえないことと、記憶の利点は記憶と忘れることとの弁証法の中にあるということ

二十世紀初頭のもう一人の記憶についての偉大な研究者であるジークムント・フロイトとの彼の接点

3.3 建築における記憶の第三段階

20世紀の最後の1/3

一般には、二十世紀はそれ以前の歴史ではありえなかったほどに記憶に取りつかれていた。博物館、公文書保管所、歴史研究、文化遺産計画に対する20世紀の膨大な投資は、忘れることに怯えているように見える文化の兆候

歴史と記憶の差

Benjamin, W.

「歴史」——19世紀の学問のひとつ——は、支配権力の利益に与するように出来事を歪めてしまうものであった。

「記憶」とは個人が歴史の覇権に抵抗するための最も重要な手段

 

3.3.1 Bachelard, G.『空間の詩学』(1958)

目的は、「家が、人間の思考、記憶、夢を統合する最も偉大な力のひとつであることを示す」こと

バシュラールにとっての記憶は純粋に精神的なものであって、彼自身慎重に説明しているように、その記憶の概念は容易に記述というかたちで表現できるものではなく、当然、物質的な構造に置き換えられるものではなかった

3.3.2二十世紀末に起きた建築言説への記憶の再導入

記憶の再発明と関連づけられる人々

3.3.2.1イタリアの建築家アルド・ロッシ(Rossi, A.)『都市の建築』(1966)

− 正統的モダニズムに関する彼の批評の一部として、彼は、都市建築の新たな形態を開発する手段は、すでに存在する建築を研究することだと提案。「記憶」を導入したロッシの目的→ 「機能主義」以外のモダニズム建築のための論理的根拠を見つけること

 

3.3.2.2Rowe, C Koetter,F.「コラージュ・シティ」(1975)

モダニズムが未来のユートピア的環境の実現だけに固執していることに疑問理想の都市は「予言の劇場である_と_同時に、記憶の劇場として振舞うことはないのだろうか」と問いかけた

主張の要点は、人はその両者に対して選択権を持つべきで、未来に身を置くことを強制されるべきではないということ

・社会の記憶に関する近年の研究

→ 関心は物から、記憶に作用する媒介物としての活動へと移っている

3.3.3Connerton, P. 『どのように社会は記憶するのか』(1989)

「刻み込む」実践と「組み入れる」実践との違い

戦争記念碑のような物体は、その周りで執り行われる祭典や活動ほど重要ではない

3.3.4ド

996)

第7講 歴史 History

1、 十九世紀における「歴史的建築」

  1.1 歴史の重み:リバイバリズム

過剰なまでの考古学的な知識を前にして、十九世紀後半の主要な関心事のひとつは、絶え間ない様式のリバイバルによる様式の価値の低下をいかに避けるかにあった。

—Violet-le- duc

   我が時代のヨーロッパ人は、人間の前進が加速されている状況ゆえに、そしておそらく正確に言えばあまりにも速く前進しているからこそ、人類の過去全てを再現する強い必要性に駆られている

1.2「歴史的建築」を創造する責務

もし建築が過去の人々の意識に接する機会を提供したとするならば、十九世紀に創られる建築は後の世代に対して十九世紀の精神構造の本質を明らかにすると想定できるということである。

 —Morris, W

建築の様式は伝統を抜きにすることはできないし、少なくともそれは以前に行われてきたあらゆることと全く異なることで始めることはできないであろう。しかし、それがいかなる形で現われようともその精神はその時代の要求や願望と共鳴するものとなり、過ぎ去った要求や願望の模倣とはならない。

 

2、「歴史」とモダニズム

Nietzsche, F

歴史を拒否することは過去に対する復讐であった。建築家たちの復讐の下地の一部は、著作『悲劇の誕生』、『反時代的思考——生に対する歴史の利害』、『道徳の系譜』において十九世紀の歴史学を攻撃したフリードリヒ・ニーチェによって用意された。実際、ニーチェは歴史そのものの重要性を否定したわけではなく、むしろ歴史を克服し、忘却することを通して超歴史的な意識に到達し、完全に現在に生きる必要性として問題を捉えていた。

2.1近代建築国際会議〔CIAM〕

創立会議での宣言文の最初の段落には、署名者たちは「自らの作品に過去の時代や過ぎ去った社会構造における設計原理を適用することを拒否する」

2.2 bauhaus

ドイツのバウハウスの教育プログラムでは、学生に建築史を教えなかった

2.3 歴史的建築としてのモダニズム

 2.3.1 Pevsner, N

  一九三六年に著した論争的書物『近代主義運動の先駆者たち』

 2.3.2 Giedion, S 

  『空間、時間、建築』(一九三八年から三九年にかけてグロピウスの招きによってハーバード大学で行った講義をもとに書かれた)

  Popper, Kの『歴史主義の貧困』によって広まった言葉

 2.3.3 Gropius, W

    ハーバードの授業から建築史をはずした

 

3、 モダニズム以降の「歴史」

過去と現在の相剋としての「歴史」は現在においてしかつくりえない。したがって新しい建築作品全ては歴史的行為であり、それらは多かれ少なかれ既存の作品すべての再解釈を促すのである。こういった意味あいでロジャースは建築を「歴史」と捉えていた。

3.1イタリアの建築家

3.1.1Gregotti, V

『建築の領域〔Il Territorio dell’Architettura〕』1966

 「歴史は興味深い道具を提示する。その知識は必要不可欠のようでありながらも、一旦習得しても直接使うことはできない。換言すればそれは廊下のようなもので、出口に行き着くために端から端まで歩き通さなければならないが、それが歩き方について何かを教えてくれるわけでもない」

3.1.2Rossi, A

『都市の建築〔Architecture of the City〕』1966

こうした永続性は過去の物理的な痕跡としての記念碑や、都市の基本レイアウトや計画における永続性として明らかになる

 

3.2フランスの社会地理学者

 ロッシの{人工物|アーティファクト}の「恒久的なもの」に現われる都市発展の過程だとすると、もう一方はフランスの社会地理学者たちに由来する「{集合記憶|コレクティヴ・メモリー}」という概念に包含される

ロッシはその考えを援用し、「すべての都市はそれぞれの魂を持ち、それは古い伝統、現在の生きた感情、あるいはまだ満たされていない願望で作られている」

3.3 ロバート・ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』1966(アメリカ版ロッシ)

しかし「歴史」という言葉の定義でロッシとは全く異なっていた。

ロッシの攻撃の対象が「機能」であったのに対し、ヴェンチューリの攻撃は「{形態|フォーム}」、特にモダニズムにおける{形態|フォーム}の過剰な単純化に向けられていた。

3.4ダニエル・リベスキンド

二十世紀の歴史哲学の教訓を学び、それを作品に適用した数少ない建築家の一人

有意義な建築を創造するということは、歴史を真似ることではなく、明確に表現することである。またそれは歴史を消すことではなく、取り組むことである

第6講 機能 Function

1、数学的メタファーとしての機能——古典的な装飾の体系への批判

1.1 Lodoli , C

建築に関して初めて「機能」という言葉を用いた

(1740年代)→ ロドリが望んでいたのは素材に作用する力学的な力から導き出さ   

  れるような石の構築や装飾の形式を発達させることであった

ヴェニスのフランチェスコ・デラ・ヴィーニャ教会に付属する巡礼者用宿泊所の驚くべき{?|まぐさ}や{窓框|まどかまち}に見出だされる

    ロドリは「機能」という言葉を数学から借りてきていた。その言葉の数学への導   入は、一六九〇年代にライプニッツによってなされたものであり、それは複数の変数の結合を示すためであった。ロドリの考える機能とは、建築のどの構成要素においても力学的な力と素材とを結合させることであった。

 

2、生物学的メタファーとしての機能

   2.1 ラマルクとキュヴィエの業績によってフランスで生みだされた科学である生

    物学において、「機能」という言葉はひとつの要となる概念

2.2 Viollet-le-Duc

ヴィオレにとって「機能」という言葉は、彼の合理的構築理論全般の基礎をなす重要な概念だった

      さらに彼はメタファーが生物学に起源を持つことを繰り返し明言

 

3、「有機的な」形態理論における生物学的メタファーとしての機能

3.1 ルイス・サリヴァン(Sullivan, L. )

形態と機能についての有名な発言の背景にある文脈   

ドイツ・ロマン主義において「形」は「力学的」であるか「有機的」である

     かのいずれか

この区別はA・W・シュレーゲルが最初に行ない、1818年にコールリッジ

(Coleridge, S. T. )によって英語にパラフレーズされた。

「ある所与の素材に、それ自身の素材としての特性から必然的に生じてくるのでない既定の形態を押し付けるとき、その形態は力学的である。たとえばある粘土の塊に何らかの形を与え、それが硬くなっても保持されるように望むときなどだ。それに対して、有機的な形態というのは内発的なものだ。それはそれ自身の内側からの発展につれてかたちづくられる。その発展が満たされることと、その外側の形態が完成に至ることとは、同じひとつのことである。それが生命というものであり、形態というものだ。」

3.2  Greenough, H

英語圏で最初に「機能」という言葉を建築に適用したアメリカの彫刻家、芸術理論家

      20世紀的な機能主義を先取りしたことにではなく、むしろ「機能」という観念を

    通して「キャラクター」の概念を用途と結び付けることで、この旧来の概念に新しい生命を吹き込んだことにある

若きルイス・サリヴァンを虜にした 形態は機能に従う_〔_form follows  

  function_〕」・サリヴァンに関するかぎり、「機能」とは「有機的な」形態を規 

    定する内的な霊力なのであり、対する「環境」は、ロマン派の用語法においては外部的な動因として「力学的な」形態を規定するものなのだ。

 

4、「用途」を意味する機能

—ある建物やその部分に定められた活動を記述するものとして「機能」という言葉が使われることは現代では珍しくないが、二〇世紀以前には思いのほかまれ

 

5、ドイツ語の「sachlich〔即物的〕」「zweckmassig〔合目的的〕」「funktionell〔機能的〕」の訳語としての機能

 

5.1即物性|sachlich (物の成り立ちとして理にかなっていること)

5.1.1 Streiter, R

 1896年 即物性|ザッハリヒカイトという言葉を次のように使っている

「我々ドイツ人は、英米の住居の特性の多くを模倣することはできないし、するべきで

はない。それらは我々の状況に適合したものではないからだ。しかしそれらから多く 

を学び取ることはできる。なによりも第一に、また最も広範にわたって学ぶべきは、住宅設備の合目的性、即物性、快適さ、衛生などの要請を考慮に入れるということだ。(1896】)

   5.1.2  Muthesius、H

リアリズムの目標を明文化:ムテジウスの目的は、英米の住宅建築の実用性

と同等のものをドイツに見いだすことであり、彼はそれを十八世紀ドイツの中流階級の非記念碑的な建築に見いだした

「我々は、我々の身の回りの、大きな橋梁、蒸気船、鉄道車両、自転車……といったものに、真に近代的な発想と新しいデザインの諸原理が体現されているのを見いだし、それに注意を向けずにはいられない。そこに我々が認めるのは、科学的と言われてもよかろう厳密な{即物性|ザッハリヒカイト}であり、装飾の表面的な形のどれをも慎むことであり、その作品が奉仕すべき目的に厳格に従うデザインである」

新即物主義〔Die Neue Zachlichkeit〕は、非=表現主義的な近代芸術の総称だった

 

5.2 合目的性│Zweckmassigkeit (使用者の目的に対し理にかなっていること)

 文字通りには「目的〔purpose〕」を意味するドイツ語のZweckツヴェックという単語 ドイツ語圏では、直接的な物質の要求を満たすもの——実用性——を意味するだけでなく、内なる有機的な目的ないし宿命——サリヴァンの使った意味での「機能」——という意味でも使われていた。

    二十世紀の初期になってさらに美学的な意義をこの単語に付加する試みがなされ、   それはカントが美的なもののカテゴリーから特に目的を排除していたことからすれば、芸術を成り立たせているものについての理解に大きな転換を生じたことを暗示

   5.2.1  Frankl、P.

1914年に出版された『建築造形原理の展開』四つのカテゴリーを通して建築の変化の過程を分析

  − 空間的形態〔spatial form〕

− 身体的形態〔corporeal form〕

− 可視的形態〔visible form〕

−「目的的意図〔purposive intention〕」(Zweckgesinnung)

 

「たとえ十八世紀の宮殿がその家具の一部ないし全部を保持していて、観光客がその

各部屋を案内されて見て回れたとしても、それはやはりミイラなのだ」(159)。

「それでもなお」とフランクルは続ける。「この消失した生気の痕跡は、その目的が

空間の形態のなかに具現化されている範囲で、建物の背後に残っている」(160)。

→ この発言における「目的」と「空間」との和合こそ、1920年代に起こった

ことを予示するもの

5.2.2 1920年代ベルリンの左翼建築家サークル(Gグループ)

合目的性|ツヴェックメーシヒカイトの強調は重要な関心事

既存の建築美学の発想すべてを意図的に撹乱し、そうすることで、カントが

芸術の外にあると主張していた目的を、いまやまさに芸術の主題そのものとした

 

 

ミースは一九二〇年代の後半にはこのような観点から距離を置くようになった。一九三〇年に書かれた「美しく実用的に建てよ! 冷たい機能性[Zweckmassigkeit]に終わりを」においては、より穏当な、つまり当代の「機能偏重[zweckbehaftet]」の建築に批判的な立場をとり、機能に注意を払うことは美の前提条件ではあるが美へと至る手段そのものではないというムテジウスやベルラーヘに近い観点に立ち戻った。こうした発言を英語の「function」という言葉で訳してしまうとミースの転向を誤解しかねないということは指摘しておくに値するだろう。彼が{Sachlichkeit|ザッハリヒカイト}ではなく{Zweckmassigkeit|ツヴェックメーシヒカイト}という言葉を使ったことから明確にわかるのは、彼が言及しているのは目的の表現についてであって、構築の合理的な表現についてではないということである。

 

6、一九三〇〜六〇年の英語圏における機能

「近代」建築にまつわる万能語

『インターナショナル・スタイル』

ヒッチコックとジョンソンの意図は、彼らがヨーロッパ的なモダニズムから取り去ろうとした側面——その科学的、社会学的、政治的な主張——を「機能的」という言葉で特徴づけた。しかし近代建築を純粋に様式的な現象として提示するために、彼らは「機能主義〔functionalist〕」建築という架空のカテゴリーを発明し、社会改革的ないし共産主義的な傾向を持つ作品をそこに押し込んでしまわなければならなかった。彼らは「機能主義者」を「様式のあらゆる美学的原理は……無意味かつ現実離れしている」と考える者たちである(35)と性格づけたが、それは実際のところ、ヨーロッパで起こっていることとはほとんど無関係なものであって、

 「機能」を貶めるこうした動向に対して、一九四〇年頃になるとそれを再建することに尽力する近代建築家や批評家も現れはじめる。

このような試みの最初の表れのひとつは、アルヴァ・アアルトによって示された。一九四〇年、「建築の{人間化|ヒューマナイゼーション}」というその時期の有力な主題ともなった事柄についての文章において、彼は「技術的な機能主義には決定的な建築を創造することはできない」と書いている。近代的な主流の外側、すなわちかつてのダダイストやシュルレアリスト、また後にシチュアシオニストとなる者たちなど、機能主義に対する反抗を己の立場を明確にする主たる方途のひとつとしていた側からの圧力もまた、近代建築家たちに機能主義の擁護を余儀なくさせた。

 

7、形態‐機能というパラダイムとしての機能

「環境〔environment〕」という概念の導入である。じきにわかるはずだが、それがなければ我々がここで理解しようとしている現象をそもそも記述することさえできなかったのである。

 

 建物と用途の関係をめぐる理解を変化させた社会の理論の源となったのは、もちろん生物学だった。生物学が社会の研究に与えたものとして、「機能」や「階層秩序」といった考え方に加えて、周辺環境|ミリューないし「環境」の概念があった

 

古典主義的な_適切さ_に欠けており近代的な機能主義に含まれていたのは、人間社会は物理的かつ社会的な状況との相互作用を通して存在しているというこの考え方である。

 

   アルド・ロッシの『都市の建築』

機能のみでは都市の人工物の持続性を説明するのには不十分である。仮に、都市の人工物のタイポロジーの起源が単に機能であるとしても、これは〔一部の建物が〕存在しつづけているという現象の説明にはならないだろう。……実際には、我々はその機能がはるか昔に失われた諸要素にしばしば価値を認めつづけている。こうした人工物の価値はしばしば、単にその形態の内にあるものである。それは、都市全般の形態に不可欠なものである。

 

 ロッシの後そう長くないうちに、それについて書く者は長らく現れなかったが、フランスの哲学者であるアンリ・ルフェーヴルとジャン・ボードリヤールは共に、「機能主義」を定義することに対する類似した衝動を示していた。ルフェーヴルにとって(そして彼はこの点はロッシと共有していたのだが)「機能主義」とは、使用を固定するためにその対象を貧しくするものであった。

第5講 形 Form

1、「形」に内在する両義性

1.1一方では「形状」を意味し、他方で「{考え|アイデア}」や「{本質|エッセンス}」〔「形相」〕を意味かたや感覚がとらえる事物の特性をさし、かたや精神がとらえる事物の特性をさしている

1.2ドイツ語(形に関する近代の概念が最初に発達した言語である)はこの問題を考えるにあたって英語より少し有利

∵ 英語には「{形|フォーム}」のただ一語しかないが、ドイツ語には「{形態|ゲシュタルト}」と「{形式|フォルム}」の二語があるから

→ 形態は一般には感覚で受け取られたものとしての対象を言うが、形式はふつう具体的な個物からある程度抽象化することを含意している

1.3「形」という言葉

十九世紀末まで、建築において、単に「{形状|シェイプ}」や「{量塊|マス}」を意味する以外、言い換えれば建物の感覚上の特性を記述する以外には使われない

2、古代における「形」──プラトン(Plato)とアリストテレス

―西洋哲学の長い歴史において「形」は哲学上の多岐にわたる問題への解決策として役立ってきた。建築に適用される前の「形」という言葉の哲学上の使い方を簡潔に見る価値があろう。

 2.1 Plato

    2.1.1 古代における「形」の概念の第一の創始者

-「形」が複雑な諸問題(実体の本性、物理的変化の過程、事物の知覚)への解決

           ―すべての事物は本質において数か数比として記述できるというピタゴラスによる先行理論

-ここで不変かつ精神〔mind〕によってのみ捉えられるものが「形」であり、感覚〔sense〕によって捉えられる事物と対比

「個物は視覚の対象であって知の対象ではない。一方〈形〉は知の対象であって視覚の対象ではない」(_Republics_, §507)

「第一に、不変の形が存在する。作られたわけではなく壊すことはできない。なんら変形を受け入れず、どんな組み合わせも作らないし、視覚やその他の感覚で知覚することはできない、思考の対象である。対して第二に、形という同じ名前を背負い、形に似ているが、感覚可能で、実在〔existence〕として生じるものがある……これは感覚に助けられながら理念によって把握される。(§52)

 

 

―『国家』でプラトンは哲学者が感覚可能な形の追求において基本的な幾何学図形で始めることを説明

「哲学者は実は図形について全く考えておらず、その図形のオリジナルについて考えているにもかかわらず」

「彼らが描いたり作ったりする図形……彼らはそれを単なる説明として扱うのであり、彼らの追求の真の主題は精神の目なしには見られない」

 

―本来見えない事物の形という対象の特徴を一連の「形状」としてプラトンが示したことで、近代、ことさら建築において形の二つの意味はいまだに混乱している

 

2,2アリストテレス(Aristotle)

2,2,1形と事物との間の根本的な区別を作ることへのためらい

―対象がもつ物質と独立して、物質の内に見いだされる何らかの絶対的な存在が形にはあるということを受け容れようとしない

「それぞれの事物それ自体と、その本質とは、一にして同じである」(_Metaphysics_, §1031b)。

2.2.2アリストテレスの「形」に関する考え

―プラトン批判や、つねに「視覚や他の感覚に知覚できない」ものに絶対的な優位を認めることへの抵抗感から生み出されたものと考えるべきではない

―植物と動物の発生過程に対する考察から起こった:『動物部分論』

有機物の根源をその発達の過程のうちに求めるのは誤りで、むしろその完全な最終状態における特徴を考察し、その後初めて発達を論じなければならないと議論

―これを建物の類比で正当化

「家の平面図、ないし家は、かくかくの形を持つ。そしてそうした形を持っているが故に、その建設はかくかくの手法で行われるのだ。というのも発達の過程も最終的に発達したもののためであって、過程のためにこれがあるのではないのだから。」

 

―植物と動物は観念の中ではなく、時間の上での実際の先行者のうちに、その萌芽がある

 

プラトン 知ることのできない、萌芽の観念としての「形」

アリストテレス 芸術家の精神から作られた遺伝に関わる物としての「形」

―この区別のうちに、近代において「形」という語のあいまいさを生み出した理由がある。

 

3、新プラトン主義とルネサンス

3.1形〔form〕と物質〔matter〕との関係を説明するため、後期古代と中世に続く哲学者達も使った。

-混乱することには、彼らは美の原因と起源とを定めるためにこの比喩を用いていた

―これはアリストテレスが意図した目的とは全く異なる

3.2ルネサンスの人文主義者たち

-建築が古代の哲学者達の世界観に適し、実際に世界の過程の類比を与えてくれる、と示したがっていた

-アルベルティ(Alberti, L.-B.)(15世紀中頃に書いた『建築十書』において)

「形」の古来からの一連の理論をなんとかうまく利用

―「建物の形と{形態|フィギュア}とのなかには、精神を興奮させてただちに精神によって認識されるような、ある本質的な美点が宿っている」

 

-エルヴィン・パノフスキー(Panofsky, E .)のアルベルティ解釈

マテリア-自然の産物 リネアメンティ-思考の産物

→これらアルベルティの区別を同じ用語で翻訳。すべてを「形」の観点から見ようというモダニストの傾向を持っていたので、リネアメンティを「形」と訳したが、これは説得力に欠ける。

―ミケランジェロの彫刻観 = 芸術家の観念を囲い込むもの

 アリストテレス的な基盤を持っている(パノフスキーの指摘による)

―パッラーディオのパトロンであるダニエーレ・バルバーロ( Barbaro, D. )

(ウィトルウィウス(Vitruvius)への論評において)

「全作品に刻まれ、理性に始まりドローイングを通じ達成されたものは、形と質をもった、芸術家自身による精神の証である。というのも芸術家はまず精神から働きかけ、内的状態のあとに外部の物質を象徴化するのだから。特に建築においては」

4、ルネサンス後

―古代の哲学において発展した形の観念

―人文主義の学者らに関心を持たれている一方、建築の通常の実践やその語彙に対しては、二十世紀までほとんど影響力を持たなかった

―16~18世紀を通じて、また実際のところは20世紀のドイツ語圏諸国を除けばどこでも、建築家や批評家が「形」について語るときは、ほぼ間違いなく単なる「{形状|シェイプ}」を意味

―1790年代に発展した「形」への新たな関心→ 二つの異なる側面

1)           カントによって展開された美的知覚の哲学に由来

2)           ゲーテによって展開された、自然と自然発生の理論に由来

 

5、Kant, I.

5.1十八世紀後期の哲学的な美学という学問分野

-美の淵源が対象物それ自体にではなく、それを知覚する過程のうちにあるという認識が元

-この議論の展開において「形」は重要な概念となり、もはや(古代やルネサンスを通じてそうだったような)事物の特性ではなく、事物を見る上での特性に限られることとなった

-『判断力批判』(1790年)

-美の判断が切り離された心的能力に属し、知識(認知)にも感情(欲望)に繋がっていない

5.2 形の重要性

-美的判断がただ「形」にのみ関連すると強調

「趣味の純粋判断において対象の快はただその形の評価にのみ連関する」

(_Critique of Judgment)。

-魅力や他の連想を引き起こすすべて、つまり色、装飾といった偶有的な特性はみな、余計である。

「絵画、彫刻、いや実はすべての造形芸術、建築や園芸に至るまで、美術である限り、デザインこそ本質である。ここでデザインとは感覚を喜ばすものではなく、ただ形によって喜ばせる物であり、趣味の根本的な必要条件である」(67)

-美的判断から対象の有用性に関する諸側面をも除外

「美的判断は……我々の注意に対象の質を一切含めず、ただその対象に携わった表象の力を確定する際の最終の形のみを持ち込む」

5.3 見られたものではなく見ること

-カントの思想における、「形」という言葉の歴史における重要性

-「形」が見ることのうちにあり、見られたものにはないことを立証し、またそれは「形」が、精神が対象に美を認識する限りにおいて、対象のうちに内容や意味とは独立した形の表象を精神が見取るからだと立証したこと

 

6、ロマン主義著述家のGoethe, J. W. 、Schiller, F.,Schlegel, A. W.ら(カントの同時代人)

―美的体験を生み出すに当たっての見る者と対象との間の関係についてのカント説明に熱中する一方で、カントの抽象的な図式では、形のうちに、また快の本性のうちに、なぜ快を得られるのか十分に説明できないと感じた。

 

6.1 Schiller, F.『人間の美的教育について』(1794~95年)

―「生きた形」という観念を、なぜ芸術作品が美的に満足するものとなるのか述べるために展開

―人間の心理は二つの衝動──「{形式|フォーム}衝動」と「{感性的|センス}衝動」──を通じて説明され、第三の衝動「{遊戯|プレイ}衝動」によって、主要な衝動の二つそれぞれは完全性を保ちながら相手を認識できる。

遊戯衝動が対応する外的な対象が「生きた形」であった。

 ―シラー(Schiller, F.)にとって、ゲーテ(Goethe, J. W. von) と シュレーゲル(Schlegel, A. W.)同様、全芸術の主題はそのような「生きた形」の中で我々が自らのうちに感じる生命をはっきり表現することであった。

 

6.2Goethe, J. W. von

-シラーの「生きた形」の概念は友ゲーテが自然科学について展開した観念と密接に連関

―1780年代後半からとりかかった植物の形態の研究において始原の植物がもつ原型〔Urform〕にはすべての他の植物──いまだ実在しないものまで──が連関するという。

―1787年、Herder, J. G. vonへの書簡

「原型となる植物[Urpflanze]はこの世界が経験したもっとも奇妙な成長を見せるでしょうし、自然それ自体がそのことで私をうらやむでしょう。そのようなモデルと、それへ通ずる鍵とを手にすることで、無限に多様な植物を作り出すことができるでしょう。それら植物は厳密に論理上の植物となるでしょう──言い換えれば、それらは実際には存在しないとしても、存在しうるのです。それらは単にピクチャレスクであったり想像を映しだしたりするものではないでしょう。内的な真実と必然性とが吹き込まれています。これと同じ法則が、すべての生けるものに当てはまるでしょう。(_Italian Journey_, 299)」

―ゲーテ(Goethe, J. W. von)や他のロマン主義者にとって自然に見いだされる有機的な形と全く同じ原則が、等しく芸術に、また実のところ人間の文化のあらゆる産物に当てはまる。原型とまさに同じ概念がヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Humboldt, W. von )の言語研究に適用され、そこから今度はゴットフリート・ゼンパー(Semper, G. )の思考において、建築へのアナロジーを与えた

 

―ゲーテ理論の意義 思考にしかわからない絶対的で観念上のカテゴリーがあると仮定せずに、自然──と芸術──の常に変化し続ける側面を認める「形」の理論を与えたこと

 

―シュレーゲル(Schlegel, A. W.)の『劇芸術および文学についての講義』(1808~9年)

-ロマン主義者の「有機的な形」についてもっとも明快で、おそらくもっとも影響力があった記述の一つ

 

「形という用語の精確な意味を理解しなければならない。というのは、ほとんどの批評家と、とりわけ生硬な紋切り型に基づいて主張する者が、この語を単に機械的な意味で、有機的な意味でなく解釈するからだ。形が機械的であるのは、外部からの力を通じ、形がその質を顧みることなく、単に偶有的に加わったものとしてなんらかの材料に与えられたときである。たとえば、柔らかい塊にある形を与えて、その塊が固まった後同じままでいるときのように。やはり、有機的な形とは生来のものである。つまり有機的な形は自らを内部から開示しながら、萌芽が完全に発達すると同時にその形を決定づけていくことができるのだ。我々は自然においてどこでも、そのような形を、あらゆる生きた力を通じて見いだす。塩や鉱物の結晶作用から植物と花まで、植物と花から人体に至るまで。自然──至高の芸術家──の領域同様に、美術でもすべての純粋な形は有機的であり、つまり作品の質によって定まる。つまり、形とは意義のある外部に他ならず、個々の事物にある雄弁なる外観、何らかの破壊的な偶発事で台無しにされない限り、その隠れた本質の真の証となるものである。(340)」

 

―ロマン主義者の「生きた形」という考えは、形が対象のみならず見る者の特性であるというカント的な観念を伝えている。その一方、カントの概念の純粋性を脅かしてもいる。というのも、形にはシュレーゲルが言うように、別のもの、つまり内的な生命力の_記号_となる危険があるからだ。ロマン主義者は苦労して、主体が自らの心理を感じ取ることを通じてこそ、対象の生きた形を認識できるという主張を通じ、二つの概念の間の統一性を保とうとしてきた。その一方、対象の特性から精神的なカテゴリーを切り離そうという傾向は、我々が次に見る十九世紀初期ドイツの観念論哲学の発達の中で浮き彫りになっていった。

 

7、観念主義(カント、ゲーテ、ヘーゲル)

7.1「形」という概念

―十九世紀初期にドイツで混同されてきた

・カント:知覚の特性

・ゲーテ:事物の特性、「萌芽」ないし発生の原則

・ヘーゲル:事物の上にあって先んじている特性であり、精神のみが知ることができる

7.2 Semper, G 建築において著作中で「形」が重要な概念となった初めての著述家

―この用語を少なくとも二つの意味で使用

? 形の観念に関する純粋に観念主義的で、ヘーゲル的な言明

・「芸術の形は形以前に存在したに違いない原則や観念の必然的な結果である」。

? ゲーテに拠ったもの

・芸術の連続的な変化過程を基礎付ける共通の原型を模索すること(『様式』冒頭で彼がその企図を説明)

 

8、フォルマリズム(ドイツ)

8.1     ドイツの哲学的な美学は二つの学派

-1830年代から、ドイツの哲学的な美学は二つの学派に分かれた

一方は一般的に観念主義者 : 形のもつ意味に関わった。

他方はフォルマリスト : 知覚以上の意味をもたない、形の知覚様態に専念

 

8.1 J.F.Herbart(ポストカント主義)

―ハーバートは美学を線、色調、平面、色彩の基礎的な諸関係を心理的に受け取るという観点から美学を定義し、著作のほとんどをこの過程の心理学的な側面に充てた。

 ―ハーバートの美学19世紀後半にほかの哲学者によって展開

8.1.1.Zimmermann, R

―発展的な「形の科学」の展開

-形そのものよりも、特に形の間に感知された諸関係に専念した科学を展開

 

8.1.2. Goller, A.

―フォルマリズム美学が建築に適用しうる可能性の一部が表現

『建築におけるたゆみない様式変化の原因は何か』(1887年)

「建築こそ_目に見える純粋形態の芸術_である」と提示

形の美を「本質的に楽しく、無意味な線の、あるいは光と影の、戯れ」

「形は、何ら内容がなくとも見る者を喜ばす」などと定義

 ―抽象的で非対象指示的な芸術の発展を予告しその根源が建築にあることを示唆

 

―ゲラーの論考は例外 むしろ1870年代以降、フォルマリズムの美学に対する潜在的に不毛なアプローチを再活性化できたのは、「感情移入」という、より科学的な概念を作り出した、「生きた形」という、先行するロマン主義の考えのため

8.2『感情移入』

―芸術作品に魅了されるのは、我々が作品に自らの身体に伴う諸感情を見とる能力を持っているから

―1856年、哲学者へルマン・ロッツェ ( Lotze, H.)

「どんな形も弾力を持っているから、我々の想像力がそこに生命を投影せざるをえない」

―哲学者ローベルト・フィッシャー(Vischer, R.)によって取り上げられ、初めて建築と関連づけられた。(重要で影響力を持つが全く思弁的な一八七三年の論考「形の視覚について」〔On the Optical Sense of Form〕において)

―建築のみならずすべての芸術においてその後の使われ方にもっとも大きな影響力をもった著述家の二人

歴史家Wolfflin, H.

彫刻家Hildebrand, A.

 

8.3 Wolfflin, H.

-博士論文『建築心理学序説』(1886年)

冒頭の問いは、建築の形はいかに気分や感情を伝えられるかというものである。ヴェルフリンの答えは感情移入の原則のうちにあった──「物理的な形がその性格を表現できるのは、我々自身が身体を持つからである」、というのも「我々自身の身体の組織化は、我々があらゆる物理的なものを把握する上での形である」からだ。

「我々を直立させ、形を失って崩れることのないようにしているものは何か。それは我々が意志とか生命など色々な言い方で呼んでいるだろう抗力である。私はそれを形の力〔Formkraft〕と呼んでいる。_物質と形の力との対立_は、有機的な世界の全体を動きのただ中におき、建築の第一の主題となる……形になるため奮闘し、形のない物質の抵抗に打ち勝たねばならない意志がすべてにあると想定できる」

 

―「形は物質を何か外部のものとして取り囲むのではなく、内在的な意志として物質から外ににじみ出るのだ。物質と形とは分けられないのだ」(160)。

1) 装飾を──ほとんどのモダニストがそうしたように──形に敵対するものと見なさず、むしろ「形の過剰な力の現れ」(179)とみなす

2)「近代」(つまりルネサンスとそれ以降の)建築に関して「近代精神は特徴として、建築の形が何らかの努力で物質からにじみ出るのを好む。この精神はそうなることの過程、形の漸進的な勝利ほどには、結論を追い求めはしない」(178)。

3)      もし「形」が何よりも見る者の知覚に属するのであれば、建築における歴史的変化は何よりも視覚様態の変化という観点から理解されるべきだと彼が認めたこと──つまり、視覚には建築と同様_それ自身の_歴史があるということ(もっとも重要)

8.4 Hildebrand, A.

『美術における形の問題』(1893年)

―この本は「印象主義」、及び、芸術の主題が事物の外見にあるという見方に対抗して書かれた

-「形」と外見とを峻別することから始めた

-事物は変化する様々な外見のうちに現れ、そのどれもが形を表すこともなく、ただ精神に受け取られるのみ

―「形の観念とは、我々が外見を比較することで抽出した総和である」(227-8)。

-形の感覚は筋感覚の経験、ないし事物が目に現れる外見を解釈するのに必要な、実際のもしくは想像上の運動で得られる。

8.5 Schmarsow, A.

「建築創造の本質」(1893年)

-見る者の感情移入がその{量塊|マス}ではなく、空間にこそ導かれるという事実に建築の特異性があると論じた

-建築空間と身体の形とがただちに等価であると提示 「空間の直感された形は、どこにいようと我々を取り巻き、我々はつねに自らの周囲にこの形を建てて、我々自身の姿以上にこの空間の形を必然的なものと考えているが、この直感された形は、我々の身体が持つ筋肉の感覚、肌の感受性、身体の構造がすべて貢献している感覚経験の残余から成り立っている。我々が自らを、そして自らのみをこの空間の中心として体験するようになればただちに、その空間座標が我々の中で交わり、尊い核の部分が見いだされる……この核の上に建築創造は依拠している。(286-7)」

 

8.6 Frankl, P.

『建築造形原理の展開』(1914年)

 

 1900年ごろまで少なくとも四組の対立する考えが生まれた

   1) 対象を見る上での特質(カント)か、対象それ自体の特質としての「形」。

2) 「萌芽」、つまり有機物ないし芸術作品の中に含まれる生成的な原理として(ゲーテ)の「形」か、事物に先立つ「観念」として(ヘーゲル)の「形」か。

3) ゲラーが提示したような芸術の目的、芸術の主題の総体としての「形」か、考えや力がそれを通じて現れるような単なる記号としての「形」か。

4) その{量塊|マス}によって建築作品にみられる「形」としてか、その空間によってみられる「形」としてか。

 

 このように十九世紀美学における思考をいくつかの重要な区分として説明するという重荷を負わされたので、二十世紀の建築の語彙において幅広く使われ始めると、この用語から明快さが欠けてしまうのは驚くほどではない。実際、これから見るように、この用語の主張の一部はその多義性にあるのだ。

 

ここまではドイツ語圏の中のみで「形」のその後の展開を考察

アメリカでこの語が新たに拡大された意味において英語の建築語彙へ導入された

8.7 Eidlitz, L.

『芸術の本性と機能』(1881年)

-本質的に はヘーゲル的な「形」の見方を初めてアメリカの読者に示した。

「建築芸術における形は物質における思考の表現である」

 

8.8 Sullivan、L. H

『幼稚園講話』十二、十三、十四における、極めてよく知られており大変独創的な「形」の言説

「全てのもの、どんなものにでも、どこにでも、あらゆる瞬間における形。その本性、機能に従って、明瞭な形もあれば、不明瞭な形もある。漠然とした形もあれば、明確で鋭い形もある。均整のとれたものもあれば、純粋にリズミカルなものもある。抽象的なものも、物質的なものもある。目に訴えるもの、耳に訴えるもの、触覚、匂いの感覚に訴えるもの……。しかし全ては間違いなく、非物質的なものと物質的なもの、主観的なものと客観的なもの

 

9、二十世紀モダニズムにおける「形」

 9.1装飾への抵抗としての形>

-形の反装飾としての概念

 Loos, A. 

1908年の論考「装飾と罪悪」

9.2大衆文化への解毒剤としての形

―1911年にドイツ工作連盟の大会にて、建築家で批評家のMuthesius, H. 

二つの明確な対立項を指摘

「形」と「野蛮」、また「形」と「印象主義」

 

9.3 形対社会的価値(フォルマリズム批判)

―一九二〇年代初期に、ドイツ工作連盟においてかなり高く価値付けられていた「形」だが、一部のドイツの建築家が深い懐疑とともに扱うようになってきた

―1923年、Mies van der Roheその頃はベルリンでGグループのメンバー

「 我々はいかなる形も知らない。ただ問題を立てるだけである。形は目標ではなく、我々の仕事の帰結である。それ自体では、独立しては、形など存在しない。……目標としての形はフォルマリズムであり、我々はそれを拒む。様式を求めて呻吟することもしない。様式への意志さえも、フォルマリズムである」

 

- 1929年 チェコの批評家Teige, K

ル・コルビュジエのムンダネウム計画に対して「フォルマリスト」という軽蔑的な用語を使い批判

- 近年では「形」は決まって社会的なことがらへの無関心をほのめかすために使われている。

ex) ダイアン・ギラルド (Ghirardo, D. )

「おそらくモダニズム建築家とポストモダニズム建築家との基本的な連続性は、形の力すなわち都市と生活条件との向上のために他の戦略を締め出してデザインの優位を再主張することによっている」(27)。

 

 -1920年代、批評家Behne、A.

『現代目的建築』

「形はきわめて社会的な事柄である」

「形は人間同士の関係を築き上げたことの結果にほかならない。生まれつき孤立したただ一人の人物にとって、形の問題は存在しない。……形の問題は概観が求められているときに立ち現れる。形は概観が可能になるときの前提条件なのだ。形は極めて社会的な事柄である。社会の権利を認識しているものは、形の権利を認識しているのだ。……人間における形、時間と空間に分節されたパターンがわかる者はみな、形の要求をもって住宅にアプローチする。ここで「形の」という言葉は、「装飾の」という言葉と混同されるべきではない」

 

9.4形対機能主義

―ジンメル(Simmel, G. )が「形」の科学としての社会学を推し進めていた頃、同じことが視覚芸術の外部にある別の分野で起こっていた。「形」が多大な重要性をもち、すみずみまで効果を及ぼすことになった分野は言語学であった。十九世紀すでに、言語の研究はフンボルトの『言語論』に影響を及ぼしたゲーテの形の理論から恩恵を受けていた。

 

9.4.1 1911年 Sassure, F

『一般言語学講義』

      ―言語学における「形」の重要性を再び主張

「言語は形であり実質ではない」という有名な原則を定式化

―建築に対する影響

1960年代、当時建築のモダニズムにおいて支配的で、最低限満足すべきとみられていた機能主義を攻撃する手段が得られた

9.4.2 Rossi, A.

1971年の『都市の建築』ポルトガル語版の序文

「形の、つまり建築の、実在は機能上の組織化の問題に優越する。……形は{類型的|タイポロジカル}な形として存在するまさにそのとき、組織化について完全に無関心になる」と記した。

 

9.4.3.     Eisenman, P.

― 二十年間にわたる機能主義への反抗

形と機能の間にも、形と意味の間にも、関連などないと繰り返し主張

 

9.5 形対意味

 9.5.1.  Venturi, R.

『建築における複雑性と多様性』第二版の序文において

「六〇年代初期に……形は建築における思考の王者であり、ほとんどの建築家は疑いなしに形の諸側面に注目していた」

これは建築家が意味と意義とを無視していたことを意図

 

 

9.6 形対「現実」

9.6.1 Hilldebrand, A. の1893年の論考

歴史家リーグル、ヴォリンガー(Worringer, W. )、ヴェルフリン(Wollfflin)らの著作

9.6.2イギリス:批評家クライヴ・ベル(Viel,C. F. )とロジャー・フライらの著作

 一般に理解される近代芸術の純粋な本質としての「形」の意義へと貢献

 

9.6.3 いくばくかの抵抗

―1918~19年

ダダイスト、トリスタン・ツァラ

芸術の特質として渾沌、無秩序、形の欠如を奨励

シュールレアリストの間に受け継がれ、フランスの批評家ジョルジュ・バタイユによってもっともよく表された

1929年『批判的辞書』

「ランフォルム」〔L’Informe〕つまり「無定形」という項目を含んでいる。この項目は無意味であること、「事物を世界へと引きずり下ろすのに役立つ用語……それが指し示すものは、あらゆる意味で権利を持たず、クモやミミズのようにどこでも押し潰される」というものを褒め称えるカテゴリーである。あらゆるものに形を持つことを望む哲学に抗して、「宇宙は何にも似ておらず、ただ_無定形な_量に過ぎないと断言するのは、宇宙はクモや唾のようだと述べることにあたる」。

9.6.4 1950年代のフランス

シチュアシオニストたちの間での形への反対運動

―固定されることで思考や関係が現実を隠す事物になる資本主義文化の傾向に対して、「形」がさまざまに原因であり徴候でもあるような過程に対しての異議

-ユートピア都市「ニュー・バビロン」

-静的な要素ではなく「環境」による都市、「束の間の要素による空間の見えの急速な変化」がいかなる恒久的な構造よりも重要であるような都市を提案した

―アーキグラム(Archigram)のグループの作品

 

9.7 形対技術的環境的配慮

「形」と「構造」や「技術」との対立

9.7.1 19世紀にヴィオレ=ル=デュク(Viollet-le-Duc)とともに始まった

9.7.2 歴史家で批評家のレイナー・バンハム(Banham, R.)

「形」への敵意

→技術革新への熱狂と結びつけられるべき

ex) 彼がバックミンスター・フラー(Fuller,.Richard Buckminster)

フラーのダイマクション・ハウスについて─好意的に─

「形の特質が……目立たない」(1960, 326)、むしろ航空機建造技術の建物への適用、また機械設備の革新的な利用によって特徴づけられる

 

-1969年の著書『環境としての建築』

 建築の未来は技術や技術本来の「形」に対する無関心とともにあるとの信念を基礎づけている

第4講 柔軟性 Flexibility

1. 柔軟性の起源

1.1 Colauhoun, A 1977
柔軟性という概念の背後には次のような哲学がある。現代の生活が求めるものはとても複雑で可塑的であるから、設計者が自分の役目としてそうした要求を見通そうとしても、結果的にその機能にそぐわない建物を生み出し、その設計者が働く社会のいわば「間違った意識」を映し出すことになるというものである。
1.2 Gropius, W 1954
柔軟性についての最も早い言及
「(1)建築家は建築を記念碑としてではなく、建築が奉仕する生活の流れを受け止める容器として構想すべきである、そして(2)その構想は、現代生活の動的な特性を吸収するのに適した素地を作り上げることができるよう十分柔軟であるべきだ」
1.3 一九六〇年代 「柔軟性」は建築批評の公理
ルイス・カーンの一九六一年の作品フィラデルフィアのリチャーズ医学研究所に対する批判
「その建築は、科学者たちの視点に立った柔軟性が求められていることについて十分に配慮されておらず、それほどうまく機能しているとは言えない」(Stern、1969、11)
1.4 Stirling, J 1965
レスター大学工学部棟について「変更可能で柔軟性を内在的に持つ一般化された解法を提示することが不可欠になっていた」

 

2. 柔軟性をめぐる論点

2.1 柔軟性を巡る最初の論争の争点
柔軟性というものを、建築作品をある面において不完全で未完結にしておき、その決定権を未来に残しておく方が達成できるのか、あるいは建築家はあくまでも柔軟性を内包した完成品としての建物を設計したほうが良いのか
2.2 不完全な建物による事例
イングランドの建築家ジョン・ウィークス 実行可能な唯一の解法は特定の諸要素が未完結のままになる未決定の建築なのであった。(Weeks、1963)
2.3 説得力のある反論
チーム{X|テン}と交流のあったオランダの建築家たち

2.3.1 アルド・ファン・アイク
1962年の論考で、「〈柔軟性〉と〈誤った中立性〉」を次のように攻撃した。
「そうした柔軟性を過度に強調すべきでもないし、もう一つの絶対的なもの、新しい抽象的な思いつきという範疇に組み入れるべきでもない。……私たちが気をつけなればならないのは、どんな手にもぴったりあう手袋とはいえ、それが手そのものになるわけではないということだ」(1962、93)

2.3.2 ヘルマン・ヘルツベルハー(同号『フォーラム』中)
「柔軟性」の行き着く先を強く批判
あらゆる将来的な可能性を予期しながら何一つ選びとらない建築は、退屈な結果を生み出し、その結果は人々の共感を得ることもない
単一の明確な恒常的形態のほうが必要
「それ自身は変化することなくあらゆる目的に利用でき、最低限の柔軟性で最善の解法を選び取る余地が残されている形態」
・これは機能主義に向けられた攻撃でもあり、人間味に溢れる人それぞれの使い方を、抽象的な「活動」という総称へと還元してしまう機能主義の傾向に向けられたものでもあった

 

3. 柔軟性の衰退

3.1 一九七〇年代後半までに、「柔軟性」は建築的性質としての魅力を多少失っていた
3.2 Stirling, J
シュトゥットガルト美術館(一九七七〜八二)の自らのデザインに関して、
「彼は現在の建築が持っている性質——退屈で意味を持たず、態度をはっきりさせることもしない、顔のない柔軟性と無制限性に飽き飽きしうんざりしている」(Stirling、1984、252)
3.3 Gropius ,W
「建築を設計する建築家の究極的な関心は人間による利用や居住に向けられている。一方現実はといえば、建築への建築家の関わり合いは、居住が始まった途端に断ち切られてしまうのである。「柔軟性」を設計の中へ組み入れることは、建築家に、建築に及ぼす支配力を未来にまで、つまり建築に対して責任を負う実際の期間を超えてまで投企できるという幻想を抱くことを可能にしたのである。」

 

4. 建築における「柔軟性」の三つの独立した戦略

4.1 冗長性(リダンダンシー)
建築家のレム・コールハース『S, M, L, XL』(1995)の中でアルンヘルムのドームについてこう述べる。
「おそらく伝統建築と……現代建築の間の最も重要でありながら、最も見落とされている違いが明らかになるのは、アルンヘルムの{円形建築|パノプティコン}のような超記念碑的で、空間を浪費している建築が柔軟である一方、近代的建築が形態と計画との決定論的な一致に基づいており、その目的はもはや「道徳的改善」のような抽象的なものではなく、日常生活のあらゆる細部を網羅した文字通りの目録でしかないということが判明するときである。本来の柔軟性とはすべての起りうる変化に対する網羅的な見通しではない。……柔軟性とは余白——異なるどころか正反対の解釈や用途をも可能にする余分な許容力——を創りだすことである。
コールハースがアルンヘルム刑務所に見出した空間的な冗長性は前近代建築の多くに見られる特徴。たとえば、バロックの宮殿など。
4.2 技術的手段による柔軟性

4.2.1 Rietveld, G 1924
ユトレヒトのシュレーダー邸は固定された間仕切はなく、かわりに可動式の間仕切を用いた

4.2.2 Prouve, J
プルーヴェによってパリ郊外クリシーに一九三九年に建てられた〈人民の家〉(see. ill. p. 146)
− その建物は午前中は屋根付き市場であったが、可動式の床、屋根、壁によって午後から夜にかけては劇場や映画館として使用することができた

4.2.3 Wachsmann, C
・戦後になると、軽量の建築構造と機械的設備の発展が注目を集める
一九五〇年代のアメリカで発展したアントン・エーレンクランツとコンラッド・ワックスマンによるシステム:全ての設備が建物の天井裏に置くことで、建築内での機能の割り当てと配置を自由に行うことを目指す

4.2.4 Friedman, Y、 Price, C
・このシステムに飛びついた建築家
フランス:ヨナ・フリードマン
イギリス:セドリック・プライス
<理由>
・これらのシステムが何かもっとすごいものへと変貌する潜在性を感じさせるものであったから
・フリードマンの考える個人の{住居|シェルター}のための新しい構造とは、
(1)表面が地面と必要最低限しか触れてはならない
(2)取り外し可能であり移動可能でなければならない
(3)個人の意志にしたがって変形可能でなければならない」(1957、294)
・ セドリック・プライス
1) ファン・パレス(一九六四;see ills. Above and p. 170)
鉄製格子状タワーの開放的な骨組みと上部のトラス屋根は、その下での有期限の筐体を構造的に支え、その内部全体のどこにでも割り当てることができる衛生設備と空調設備を保持していた

4.2.5 パリのポンピドゥー・センター
「柔軟性」が実際のところ象徴的なものにすぎなかったことは、最近行われた修理のために長期間の閉鎖を必要としたことに表れている

4.3 政治的戦略の一つとして

4.3.1 資本主義に対する批判
1950年代末に状況主義インターナショナルによって展開された
都市と都市空間に関しての戦略:デトゥルヌマン〔de’tournement〕_——すでに特定の用途を与えられてしまっている既存の建物や空間を(本来の用途からすれば間違った仕方で)流用すること——であった。

4.3.2 Lefebvre, H 『空間の生産』(一九七四)
「各機能は、支配された空間内にある特定の割り当てられた場を持つ。そのために、機能主義は機能を強調することで、まさにその多機能可能性を除去してしまうのである。」 ルフェーヴルにとって、資本主義による空間の支配は物理的にも、抽象的にも生じるものであった。機能的な区分が物理的に押し付けられることによってそれは生じるのだ。また精神が空間を捉える際に用いる抽象的な図式をも押し付けられるのだ。それ故、この空間の支配とは資本主義の最も侵略的な作用の一つとなる。
・ルフェーヴルが念頭に置いていたもの
→ 例えば初期のキリスト教がそもそもは俗世の用途のために作られたローマのバシリカを崇拝のための聖堂として採用したというような類いの事実
→ 行動が形態に先立って存在したのであり、形態は時の経過とともに目的と結びついたのだった。

第3講 デザイン Design

1. 語源

1.1 AAスクール〔Architectural Association School of Architecture〕の学長:ハワード・ロバートソン1932年に自身の著書『建築構成の原理』〔_Principles of Architectural Composition_〕を改訂する際に、その題名を変更して『現代の建築デザイン』〔_Modern Architectural Design_〕とした。それは二十世紀半ばにおける「デザイン」という単語の急激な普及を示している。
1.2 アリソン&ピーター・スミッソン「『デザイン』というのは下品な単語」むしろ「{配置|オーダリング}」という用語を好む
1.3 語の2つの意義
動詞:建物などの物を作るための指示をあらかじめ用意するという行為
名詞:二つのはっきり異なる意味
1.3.1 {設計図|ドローイング}という形態をとったもの
− イタリア語の「ディゼーニョ〔disegno〕」(ドローイング)から来たもの
− 英語では十七世紀までに、建築家による設計図に対して「デザイン」という言葉がごく普通に使われるようになった
1.3.2 ある指示に基づいて実施に移された作品を指すこと
− ある物を指して「このデザインは良い」と言ったりする場合
1.4 イタリア・ルネサンスにおける新プラトン主義的な思潮のなかでの、設計図という意味でも、実施に移された作品という意味でも、広く受け入れられていた
1.5 十七世紀の初めにはすでに英語にも定着サー・ヘンリー・ウォットン(『建築要理』〔_The Elements of Architecture_〕(1624)において)ヴィトルヴィウスの「ディスポジチオ〔dispositio〕」という用語の意味を「まさに初発の〈_観念_〉ないしはその〈_デザイン化_〉〔designment〕を、きっちりと十全に表現すること以上のなにものでもない」と説明

2. 両義性

2.1 ルイス・カーン:「デザインは、現実化——すなわち形態——がわれわれに命ずるものを、存在へと導くことなのだ」
2.2 ポール・アラン・ジョンソン:「建築はプラトン主義の最後の砦である」
2.3 「構成」と「デザイン」:この二つの単語は十九世紀を通じて共存し、ソーンの講義(559)にも見られるように、同義語的で交換可能なものとして使用
ex 1)フランク・ロイド・ライト (1931年)
「構成は死に、創造が生き残る」
ex 2)チェコの批評家、カレル・タイゲ
(1929年、ル・コルビュジエの「ムンダネウム」計画〔’Mundaneum’ project〕について)「構成。この言葉によって、ムンダネウムのあらゆる建築的失敗を要約することができる」と非難。
2.4 「デザイン」という言葉の普及:− それ自身が設定する両極性と関係.つまり、「デザイン」は、一方で「建てること」とそこに含まれる全てのこと、他方で建築に関しての非物質的なあらゆることとの対比関係を作り出す手段を提供
2.5 「デザイン」という言葉の両極性
1726年 レオーニは、アルベルティが『建築論』の冒頭で行った重要な区別を次のように翻訳「建設の技芸の全ては、デザインと構造とによって成り立っている」(1)。
リクワート、リーチ、タヴァナーが最近の翻訳の中(422-23)で指摘
「デザイン」という言葉は——少なくとも二十世紀後半の意味合いにおけるそれは——アルベルティが意図したこととはかけ離れたものであり、彼らはラテン語の原文どおり「lineamenti」という言葉をそのまま使っている。アルベルティによる区別についてのレオーニの言葉の選択は、「デザイン/構造」という言い回しが、十八世紀において、建築という一つの行為の二つの側面を記述するために広く了解され受け入れられたものだったことを示唆している。

3. 「デザイン」という言葉の魅力

3.1 自由技芸に加わりたいと切望しながらも、実際には建設の物質性に関わりあい、手仕事や商業的なものに関係せざるをえない職能にとって、自らの作り出すものにおける純粋に精神的な作業の部分を示す単語であるということ.このことが十六世紀イタリアの建築家たちにとっての「デザイン」という言葉の魅力であった。
3.2 二十世紀の初めになると、あるひとつの理由によって、手仕事的な内容と精神的な内容とを区別する必要性はますます高まっていった。

4. 建築家の訓練に起こった変化

4.1 二十世紀の初めまでは、フランスを除けばどこの国でも(またフランスでも相当程度)、建築家は、実践的な建築家の仕事場で研修生や見習いとして働きながらその仕事を習得。
二十世紀の初め頃、その訓練の場が、ほとんどどこでも、アカデミーや大学や建築学校へと移行。
建築家がその訓練のなかで学ぶことが「実践」ではなく「原理」になったこと。生徒がその訓練のなかで「作り出す」ものは「建築」ではなくドローイング——一般に言われるところの「デザイン」——になった。精神の産物としての建築——教育されるもの——と、物質的世界に結び付けられた実践としての建築との分離は、このとき初めて目に見える現実として出現。

5. グッドデザイン

5.1 イギリスにおける「デザイン」という言葉の別の意味
− 日用品や消費物に関連したかたちで、つまり「グッド・デザイン」というような表現で用いられていた。
− 1937年、ニコラス・ペヴスナー
「我々の周りにあるこれらの粗悪なデザインと戦うことは、道徳的な義務となっていた」

第2講 コンテキスト Context

1. エルネスト・ロジャース:『カサベラ コンティニュイタ』

1.1 モダニズム批判:場所に対する無関心さや、全ての作品を突飛なものへと作り変えようという欲求を批判。むしろそのかわりに、直接的な物理的意味においても、歴史的な連続体としても、建築をその周囲の環境との対話として考えるべきだとする。
1.2 用語:ロジャースの使用した用語は「ル プレシテンツェ アンビアンタリ〔le preesistenze ambientali〕」環境に先在するもの
1.3 比較:建築が場所に対して応答することについての従来の議論——イギリスの「{地霊|ゲニウス・ロキ}」に比較するとロジャースの概念が特徴的なのは、都市が表出し、その居住者の意識のうちにある歴史的な継続性に絶対的な重要性を置いた点
1.4 影響:エリオット「歴史的な感覚は、過去が過ぎ去ってしまった認識だけではなく、過去が今あることの認識をも包含する」の影響も大きい

「現存する記念碑的な作品は、それら同士の間に理想的な秩序を形成しているのだが、そのなかに新しい(真に新しい)作品が導入されることによって修正が加えられるのである。現存の秩序は、新しい作品が出てくるまえにすでに成されている。そして、新しいものが付け加えられた後もなお秩序が保たれているためには、現存の秩序の_全体_が、たとえほんのわずかであっても変更されねばならないのである。こうして、個々の作品の全体に対する関係、釣り合い、価値などが再調整される。そして、これこそが古いものと新しいものとのあいだの順応なのである。ヨーロッパ文学、そして英文学の形式についての秩序概念を認めたものであれば誰もが、現在が過去によって導かれるのと同様に、過去が現在によって変更されるということを途方も無いことだと思うことはないだろう。(1917, 26−27)」

2. アルド・ロッシの『都市の建築』(1966)

2.1 『都市の建築』は部分的には、_アンビアンテ_という概念についてのさらなる探求
2.2 ロッシの異議:ロジャースの_アンビアンテ_という概念に対するロッシの批判とは、その概念が十分に具体的ではないというものだった。

3. クリストファー・アレグザンダーの一九六四年の「形の合成に関するノート」(1978)

「コンテクスト」を「環境〔environment〕」の同義語として使用

「全てのデザインの問題は、二つの存在の間の適合を達成しようとする努力から始まる。つまり、ここで問題となっている形態と、そのコンテクストである。形態が問題の解決となり、コンテクストが問題を定義する。」(15)
「デザインの目的とは、実現可能な最良の方法において要求を満たすことではなく、「形態とコンテクストとの間の不適合を防ぐことなのである。」(99)

4. コーリン・ロウ:一九六三年からコーネル大学で教え始めた

4.1 アーバン・デザイン・スタジオにおいて、一九六六年に「コンテクスチュアリズム」と「コンテクスチュアリスト」が建築の語彙へと導入。 モダニズム建築に対する批判
4.2 ロジャースとの差異:ロジャースはどのように建築を通じて歴史の弁証法的な過程が明らかにされるかという点について関心を持っていたのに対してロウはもっぱら建築作品の{形態的|フォーマル}な特性に注意を払っていた。
ex) アントワンヌ・ル・ポートルによるパリのオテル・ド・ボーヴェ(1652−55) −フランスの典型的都市邸宅が、際立った特色を失うことなく不整形な敷地に適合するように、圧縮され、変形
4.3 コーネルスタジオの「コンテクスト」についての関心:形についてのもの、とりわけ図と地の関係についての研究によって特徴づけられる
4.4 コーネル大学におけるコンテクスチュアリズムの集大成、ロウとコッターの『コラージュ・シティ(1978)』

5. ケネス・フランプトン 一九七六年 一九七五年のジェームズ・スターリングのデュッセルドルフ美術館の設計競技の応募作品について、「コンテクスチュアル」な内容の観点から批評

5.1 スターリングが自らの作品について「コンテクスト」の観点から語り始めた。
ex) 一九七一年: セント・アンドリュース大学のアートギャラリーの設計案について 「それは、_形式的_であり同時に_コンテクスチュアル_だった」と。(1998、153)

6. 一九八五年の論評のなかで、アメリカの批評家であるマイケル・ソーキン

「現在建築家たちが『コンテクスト』に夢中になっていることの帰結とは、いくらでも建て増しできることへのある種の共通の自信である。感受性が高く熟練した建築家であれば、どこにでも介入できるはずだという暗黙の議論があるのだ」。(148)

7. レム・コールハース

一九八九年のフランス国立図書館のコンペの設計についての「日記」のなかで、苛立たしげに以下のように書いている。

「しかしながら、そのような容器が都市との関係性をいまだ持つことができるだろうか。持つべきなのか。それは重要なのか。それとも、『くたばれコンテクスト』がテーマになるのか」。(1995、640)

第1講 性格 Character

 □建物は意味を伝えるか?もし伝えるならいかにして識別するか?

1. 20世紀における性格という語の使われ方

1.1 コリン・ロウはこの語をモダニズムの語彙から抹消しようとした
建築の意味はその知覚のうちにのみ存在するため、建築はその直接の実在以上のものを表象できないとするものであった。
しかし多くのモダニストがこの語を使う
—オットー・ワグナー(建物の性格表現を明晰に)、
デヴィッド・メッド(色彩は建物の性格を決定づける)、
ケヴィン・リンチ(ボストンに望まれる特徴的な性格)、
ロバート・マックスウェル(ミシソーガ市庁舎の性格)

2. 過去20年間の性格の使われ方

2.1 シュルツは建築の基本用を「空間」と「性格」においた。このとき性格とは環境に自らを同定すること。特定の場所でいかに自らがあるかを知ること。
2.2 ダリボア・ヴェゼリー:「性格」という概念は建物とその裏にある意味とを区別しようとして、建築本来の表象性に混乱をきたした

3. 18世紀の「性格」

3.1 ジェルマン・ボフラン:『建築書』(1745)(用途の表現)
これらの様々な性格を知らない者、あるいはそれを作品の中で感じさせることのできない者は建築家ではない……大宴会場や舞踏場は教会と同じような方法で作られてはならない……建築におけるすべての様式やオーダーには、それぞれの建物の種別にもっとも適した特徴的な性格を見いだすことができる。
しかし、ボフランの考えは詩や演劇からの流用が多かったが、それらの類型は建築そぐわず、違う分野からの借用を考えた。これがロウなどの純粋性を重んじるモダニストには受け入れられなかった。
3.2 J=F・ブロンデル:『建築講義』(1766)(用途の表現)

すべての建物はその全般的な形状を決定し、どういう建物かを表明する性格を持つべきである。固有の性格が彫刻のみによって示されるのでは不十分である……優れた全体の建物配置[disposition]、形態の選択、それらの根底にある様式が、その種類の建物にのみ相応しい関係性を与えるのである

ブロンデルはさらに六四の異なる建物のジャンルの区別を行い、その中で各々に相応しい形態と装飾について論じた。それより前の『建築講義』第一巻第四章において、ブロンデルは建築において可能な性格の領域について説明した。そこでは少なくとも三八の性格を挙げたが、その中には、崇高、高貴、自由、男性的、堅固、剛健、軽い、優雅、繊細、牧歌的、純真、女性的、なぞめいた、壮大、大胆、恐ろしい、矮小、うわついた、放縦、両義的、不明瞭、粗野、単調、軽薄、貧弱などの言葉が含まれている

3.3 J=D・ルロワ:『コンスタンティヌス一世から今日までキリスト教徒が教会に与えた様々な配置と形態の歴史』(1764)(雰囲気の喚起)
建築で表現される主題を文学ではなく自然の体験から引き出すことを提案した
3.4 ロード・ケームズ:『批評の原理』(1762)とトーマス・ワットリー:『近代造園の言説』(1770)では18世紀後半の性格議論の中心である自然の感動に匹敵するものを建築にみつける努力が行われる。(雰囲気の喚起)
ケームズ:ケームズは建築の快の一部としてその有用性の表現を強調したが、芸術の基礎である「ある快い感情や感覚」を創り出すために、直接的で寓意的な趣向を凝らすことには批判的
ワットリーは、三つの性質──象徴的、模倣的、独創的──からなるより厳密な「性格」の分類を提示した
3.5 カミュ・ド・メジエール、ブレ、ルドゥを魅了したものは建築が思考に頼ることなく心に直接訴えかけるという考え
ル・カミュ・ド・メジエール(建築の特質』(1780)彼の性格の概念の説明を行うにあたって、絵画と演劇における類比を活用しながらも、究極的には建築が独自の性格を生み出しうるとしていた。(雰囲気の喚起)
3.6 アレクサンダー・ポープ『ロード・バーリントンへの書簡』(1731)(場を作る)
建てる、植える、何を意図しようとも
柱を立てる、アーチを架ける
土地を盛る、{岩屋|グロット}を掘る
すべてにおいて、決して_自然_を忘れるな
すべてにおいて_場_の_精霊_に問いかけよ
3.7 サー・ジョン・ソーン (用途、場、雰囲気)18世紀最も性格を主張した建築家
3.8 十八世紀に展開されたもうひとつの「性格」の包括的な議論はドイツ・ロマン派おもにゲーテと結び付けられるが、「表出する性格」の理論は様々なフランスの理論への反論において展開された。
ゲーテ:「ドイツ建築について」(1772)、すべての芸術や建築の真実はその製作者の性格を表現する度合いにかかわっていると推論した。
例:大聖堂の石工、エルヴィン・フォン・シュタインバッハの魂の表現
この「表出する性格」がその後のドイツ英語圏での性格論の主流となる。
3.9 ラスキン:『ヴェニスの石』(表出する性格を理解する条件)

一連のレリーフを用いて聖書の歴史を記録した建物は、あらかじめ聖書に親しんでいない者にはまったく用をなさない。……つまり繰り返せば、感情に訴えかける力は、見る者が非常識であったり、つれなかったりすると、変化したり、消えてしまったりするのだ。

続けてラスキンはゴシック建築の物質的な形の六つの性質(粗野、変化に富むこと、自然主義、グロテスク、堅固さ、過剰さ)を列挙し、ついでそれらの性質と建設者の精神的な傾向との対応関係を示した。

3.10 ヴィオレ=ル・デュック:
建物が持ちうる意味はその構造の完全性でしかなく、性格の体系などは不必要なものであった。
レオポルド・アイドリッツ、ヘンリー・ヴァン・ブラント、サリヴァン

4. 再度20世紀の性格

—あらゆる意味での性格という概念の、二十世紀初めにおける相対的な衰退は、おもに構造合理主義の影響によるものと見受けられる。構造合理主義が定着した所ではことごとく「性格」という語が愚弄された。例えばW・R・レザビーは一九一〇年の合理主義的な講演「冒険の建築」をこう結んだ。

近代的な精神にとってのデザイン手法とは、可能性の明確な分析という科学的な、あるいは技術者の、感覚からしか理解し得ないものである。──詩的な事柄に対するあいまいで詩的な扱い方や、そこから派生する家庭らしさ、牧場らしさ、教会らしさ──多様な趣を扱うこと──過去百年間建築家たちが行ってきたこととは異なるのだ。(95)