投稿者: Yusuke Sagawa
第3回 視覚性
ピエール・コーニック/CSH#22、
1960、ロサンゼルス、ジュリアン・
シュルマン撮影
篠原一男はよく美しいエレベーションが一つ無いとよい建築にはならないと言っていた。東工大100周年記念館の設計をしていた頃、「その建物はどこから写真を撮るのか?」とスタッフによく聞いていた。建築を社会化するためには、建築ジャーナリズムにおける写真の重要性を篠原は強く意識していた。それが住宅であればなおさらである。篠原に限らず、メディアを意識している建築家はル・コルビュジエをはじめとして数知れない。
しかし一方でいい写真がとれればいい建築か? という疑問も湧いてくる。つまり建築は静止した一点から美しく見えることではなく使う人の体験の中で、つまり動的な視線の中で現れるのではないか?という疑念である。しかしそうした体験的建築でもどこかにいい絵がないと人に伝わらないというジレンマもある。建築体験をうまく伝える視覚とは?
目次
1.写真的(photogenic)とは?
2.photogenic
2.1 ル・コルビュジェ
2.2 ジュリアス・シュルマン
3.anti-photogenic
3.1 アドルフ・ロース
3.2 ルネ・ブッリ
3.3 anti-photogenicの見直し
3.4 伊東豊雄
3.5 坂本一成
4.近代的視覚の変容1 —完璧ではないという価値感
4.1 プロヴォーグ
4.2 ブレ・ボケ写真の一般への消費
4.3 曖昧な境界 —建築写真において—
4.4 曖昧な境界 —建築において—
5.近代的視覚の変容2 —近眼的長時間の視覚
6.近代的視覚の変容3 −データーベースモデル
6.1 視覚の変容
6.2 前近代モデル
6.3 近代モデル
6.4 ポストモダンモデル
7.実践としての写真
7.1 デジタルカメラの普及・一般誌の隆盛
7.2 プチ○○の登場
7.3 実践される写真
《参考文献》
- ビアトリス・コロミーナ、1996、『マスメディアとしての近代建築 アドルフ・ロースとル・コルビュジェ』、(松畑強 訳)、鹿島出版会
- 多木浩二、2001、『生きられた家 経験と象徴』、岩波現代文庫
- 坂本一成、2000、『閉鎖から開放,そして解放へ—空間の配列による建築論』、新建築社、新建築、2000年11月号:60-67
- 五十嵐太郎、2001、「メディアと建築—建築史の中の写真」、INAX出版、10+1、23号:117-132
- 福屋粧子、1998、「建築はどのように伝達されるか 制度としての建築写真」、彰国社、建築文化、1998年2月号:218-224
- 五十嵐太郎、2001、「メディア」、彰国社、建築文化2001年2月号:136-137
- 菊池誠、2006、『複製技術時代における「アウラ」 建築/メディア/写真』、建築写真 Architectural Photography:48−51
- 豊田啓介(聞き手)、2006、『Special Interview with Julius Shulman』、建築写真、Architectural Photography:38−47
- 「スペシャル・インタビュー:ジュリアス・シュルマン」、casaBRUTUS2000年summer、マガジンハウス
- セルジュ・ティスロン、2001(原著1996)、『明るい部屋の謎 写真と無意識』、青山勝、人文書院
- 京都造形芸術大学(編)、2003、『現代写真のリアリティ』、角川書店
- 東浩紀、2001、『動物化するポストモダン—オタクから見た日本社会』、講談社現代新書
- 青木淳、2000、『住宅論—12のダイアローグ』、INAX出版
- ロラン・バルト、1997、『明るい部屋—写真についての覚書—』、みすず書房
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第2回 男女性
白のパンタロンと上着を着たシャネルとリュシアン・ルロン
ヴェニス 1931
エドモンド・シャルル・ルー『シャネルの
生涯とその時代』
鎌倉書房1990より
社会に出て建築の設計を始めて数年すると、周りの人の描いている図面が気になり始める。一体自分の描いているものはなんぼのものだと思うようになる。そして先輩同輩の図面をしげしげと眺めると、それぞれにデザインの癖のようなものがあることに気付く。
そのなかでも曲線を使うか使わないかというあたりはひとつの分かれ目のように感じた。現在のようにcadが普及しているとさほど感じないが、手描きだったそのころは、曲線を使うのは図面技術の問題からも、数値をうまく整えていく上でもなかなか難しいことだった。だからそれができる人はデザインができる人のように言われた。そして曲線=優美という一つの美的価値を獲得していたように思う。
ライトが曲線を多用したジョンソンワックスビルを女性的と呼んだそうだが、優美が建築の価値となるのと女性の社会進出とは無関係ではない。それまでの男性社会では建築は男性的であることがよしとされていたのだから。
目次
1.西洋建築にみる男女性の系譜
1.1 セルリオの二項対立に見る男女
1.2 ウォットンのオーダー分析
1.3 建築は男性性優位の産物だった(J=F・ブロンデル)
1.4 女性性と言われる形容詞が評価されるようになったのは最近のこと
2.日本文化に見る男女性の系譜
2.1 縄文・弥生
2.2 松岡正剛、真壁智治、四方田犬彦の女性性評価軸
3.性がつくる建築(1)西洋編
3.1 古代、中世
3.2 近世、近代
3.3 現代
4.性が作る建築(2)日本編
4.1 戦前
4.2 戦後
参考文献
- 藤岡通夫 1971 『近世の建築』 中央公論美術出版
- 平井聖 1980 『図説日本住宅の歴史』 学芸出版社
- 内田青蔵+大川三雄+藤谷陽悦 2001 『図説・近代日本住宅史』 鹿島出版会
- エイドリアン・フォティー 坂牛卓 辺見浩久監訳 2006 『言葉と建築』、鹿島出版会
- 松岡正剛 1995 『フラジャイル』 筑摩書房
- 四方田犬彦 2006 『かわいい論』 筑摩新書
- エドモンド・シャルル・ルー 秦 早穂子 1990 『シャネルの生涯とその時代』 鎌倉書房
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第1回 イントロダクション
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付2 建築はしゃべるか – meaning
トラピスト
ジャンヌーベルがTNプローブで篠原一男と対談した時、篠原はヌーベルの劇場壁面を見ながら装飾だと言って称揚した。今年の1月の新建築で伊東豊雄は装飾の力を強調した。二人の建築家が言う装飾とは何か?広辞苑では「美しくよそおいかざること。また、そのかざり、よそおい。かざりつけ。」であるが、二人の建築家の指すものはもう少し限定された意味である。 建築の世界で装飾というとき最初に無意識に引用されている文脈はアドルフ・ロースの『装飾と犯罪』である。そしてそれは当然のことながらネガティヴなことばなのである。またそれはモダニズムの本質の一つである抽象という概念の対立軸の逆側におかれたものとして語られる。その時この言葉には具象という意味合いが色濃く付着してくるのである。 つまり、ある部分を捨て、エッセンスだけを表そうとする態度に代わり、捨てることなく、全体を像を具えて表そうという態度が抽象の対語としての具象である。それはもう少し建築に引き寄せて語るなら、モダニズム期に抽象と言って捨象した様々なものをもう一度具えることに他ならない。 しかし注意すべきはそうした試みは建築のポストモダニズム期に(モダニズム期に捨象された)物語の復活として歴史様式を付加した建築が沢山作られるかたちで行われ、結局何も語りえず終わったと言う事実である。 当然ここで彼らが具えるべきとしている像はこうした失われた物語としての歴史様式ではなくもっと人間に本質的な像なのだと思う。そうした新たな像が人々に何かを語るということが今可能性を持ち始めているのである。その語る内容とは何か?そしてその語り口とは?
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