第14講-2 使用者 User

1、Lefebvre、H

使用者の空間は_生きられている_のである──表象化されるものではないのだ彼の考えによれば、「使用者」というカテゴリーは、構成員から空間の生きられた経験を奪いとってきた現代社会が、その空間の居住者たちをも抽象概念に転換することで、彼らを自己認識さえできなくさせるという更なる皮肉を成し遂げた仕掛けであった。ルフェーヴルの見解は、「使用者」に対する攻撃としてもっとも早いもののひとつである。とは言っても、ルフェーヴルにとって、「使用」と「使用者」は決して完全に否定的な概念ではなかった──実際、彼が最終的に願っていたことは、使用者が空間を専有し我が物にするための手段を回復するのを目にすることだった。

 

2、Hertzberger, H

機能的な決定論に抗う「使用」の解放力に関する類似した見解は、ヘルツベルハーが一九六〇年代初期以降に著したものの中に見ることができる。「使用者」は、ヘルツベルハーの論説の中で繰り返し用いられる用語である。建築のそもそもの目的とは、使用者に居住者となることを可能にさせること。つまり「使用者のために……各部分、各空間をどのように使いたいかということを自ら決定することができる自由」を作り出すことだと彼が考えていることは明らかである。

しかしながら、この極めて特殊で肯定的な意味での使用者が、広く通用するようになるのは一九九〇年代に入ってからであった。それまでは、「使用者」に関心が集まる最も一般的な理由は、設計を進める上で頼ることができる情報供給源としてであった。

 

3、スウェインの三つの目的 ?設計の情報源としての使用者

第一に、スウェインは他の多くの建築家と同じように、使用者の要望を分析することが新しい建築的解法──慣習的な建築計画あるいは建築公式から解放された真に「モダン」な建築の一事例を導くと信じていた。

第二に、「使用者」という用語を選ぶことは、機能主義パラダイムの延長上で理解されうるということがある──もしある関係性が建物と社会的振る舞いの間に存在すると言われるのなら、建物によって影響を受けるとされる人々を表す言葉が必要になる。「使用者」という言葉はこの必要性を満たし、いわば機能主義の方程式における第二の変数を提供する。そのために「使用者」は機能主義的規範の結果として見られることがあるのだ──その「使用者」に対する不満の中にはこの規範が孕む欠点から生じるものも存在するのである。

第三の目的は、建築家という職業にとって驚くほど有利で幸運な時代における彼らの一連の信念体系を維持することにあった。第二次世界大戦後の二十年間は、西欧諸国では福祉国家が発展し、アメリカでも史上もっとも福祉国家的な政策が発展した時期であった。富の所有権を大々的に再分配することなしに資本と労働の関係を安定化させるよう意図された政策の内部で、建築は西欧諸国の政府による戦略の重要な一部分として広く採用された。それは単に新しい学校、住宅、病院を提供すればよいという問題ではなく、これらの建物を占有する人々が社会の他のメンバー全員と「同等の社会的価値」これらの建物を占有する人々が社会の他のメンバー全員と「同等の社会的価値」をもっていると確信できるようなやり方で供給することが必要であった。実行においては異常なほどの自由を与えられながらも、建築家に課せられた使命とは──どうしても避けることのできない社会的な差異に直面しながら──平等社会に参画している感覚を促す建物を創り上げることであった。

 

4、公共建築と使用者

一九五〇年代と六〇年代に「使用者」という言葉が用いられた理由は、部分的には以下の二点だったと指摘できよう。ひとつは、建築家自身の信念体系を満足させること、つまり実際は国家のために働いていた一方で、恵まれない階級のために働いているという彼らの主張を正当化することであった。もう一つは、福祉国家的な民主主義の中で社会的、経済的平等へと邁進する社会の出現を提供する手段として、建築が特別で独特な地位を占めることを可能にすることであった。しかし、現実には社会的、経済的格差は存在し続けたのである。 「使用者」と「使用者の要望」に対する関心が薄れていったのは、一九八〇年代に公共受注が減少したのと軌を一にする。「使用者」という言葉がもはや建築家にとって価値あるものではなくなっただけでなく、建築家の社会的な権威が減退するにつれて、「使用者」は現実的な脅威、つまり、建築家の意図を挫く管理不可能な無秩序を擬人化したものとなったのである。

 おそらく、「使用者」という言葉に対する不満のもう一つの理由は、それが人々の建築作品への関係を性格づける上で不十分なやり方だったことにあるのだろう。例えば誰も彫刻作品を「使う」と語る者はいない。しかし建築では、いまだにそれを用いる人々との関係を語るよりよい表現がないのだ。ある最近の本では、「使用者」という言葉を「積極的な行為や、意図とずれた使用の可能性をも示唆するので、占有者、占拠者、居住者といった言葉に比べると……より適切的な用語である」(Hill, 1998, p.3)として再評価した。一九九〇年代末までには、「使用者」は恵まれない人々や抑圧された人々という含意をもはや失ってしまい、建築家たちが自らの仕事を批評する手段となったようである

第14講-1 型 Type

1、用途分類

1.1  Blondel ,J.-F. 『建築教程』1771

64種類の建物リストを掲載ジャンルと呼びそれぞれに適したキャラクターを明らかにした。

1.2 Pevsner, N 『ビルディングタイプの歴史』1976

ここでタイプは用途を示す

2、形態分類

—Duran、J.N.L. 『建築学講義』1819

デュランは異なる建築形態を構成する技術を、その用途とは関係なく提示した

 

本章で提示したいのは、この概念が建築において使われてきた様々な_目的_についての手短かな考察である。

3、自然模倣としての建築観の防衛

3.1 Quincy, Q

 十八世紀、建築は自然を模倣する芸術だという見方が建築思潮における中枢をなしており、この考えは、建築が「熟練的技術」に対置されるところの「自由学芸」であるとの主張の根拠ともなった。この建築自然模倣論に対し、十八世紀中葉から特にカルロ・ロドーリの理性主義的な議論によって反論が加えられ始めた。フランスの建築理論家である、カトルメール・ド・カンシーが模倣に関してきわめて独創的な理論を発展させたのはこの自然模倣論を保護するためであった。カトルメールによれば、建築は文字通りにではなく、単に隠喩的にのみ自然を模倣する。その結果、人々はその模倣が架空のものであることを承知の上で、にもかかわらず想定上「自然」を実際に参照したとして認識されるのである。カトルメールが「型」を導入したのは、建築が参照するのは「自然」のどの部分なのか説明するためであった。今もしばしば引用される『系統的百科事典』の「型」の項目においてカトルメールは「型」(タイプ)と「手本」(モデル)を次のように区別している。

型という言葉は複製や完全な模倣をすべきイメージよりも、それ自体が手本に対してルールとして機能すべき要素という観念を示している。……技巧を実践において遂行するにあたって理解される手本とは、そのまま何度と無く反復されるべきものである。一方、型はひとつの対象であり、人はそれに従って互いにまったく類似しない芸術作品をも構想しうる。手本において全ては明快に示されているが、型において全ては多かれ少なかれ曖昧である。

「型」(タイプ)「ものごとの初源の理由であり、厳密に類似させるべき主題や動機を支配したり、備えたりすることができないもの」

「手本」(モデル)「完全なもので形態的な類似にしばられるもの」

この区別によってカトルメールは、建築は自然を複製しないが模倣はする、という議論をできるようになった。

3.2 Semper, G

ゼンパーの課題は「建築のこうした祖形的な形をトレースする」ことであった「祖形的な形態」を表す彼の用語法は原型〔Urformen〕、標準型〔Normalformen〕、胚〔Urkeim〕、動機〔Urmotiven〕といった一群の言葉の中で変化している──これらの言葉はすべてゲーテの動植物の形態理論から引かれた──が、一八五三年彼が英語による講義をロンドンで行ったとき用いた言葉は「型」だった。

 

ゼンパーは建築における「型」はテラス(石工)、屋根(木工)、暖炉(陶工)、壁(織工)という四つの主たる工程の中に潜む力を通して理解されるべきだと提案した。ゼンパーは次のように説明した。「この考え方は対象や形の起源がそれ以前の動機〔Urmotiven〕や環境による様式変化によることを明らかにするだろう」

 

4、マスカルチャーへの抵抗の手段として

4.1 Muthesius, H

 一九一一年からのドイツの工作連盟(Deutsche Werkbund)において、議論の主たるトピックはTypisierungであった──かつて「規格化」と訳されてきたが、現在の一般的解釈に拠れば最良の訳は「型」であろう。工作連盟における議論はムテジウスによる一九一一年の講演「我々はどこに立つのか」に始まる。その中で彼は当時の芸術が様式上の個人主義に向かう傾向を「ただただ恐ろしい」こととして攻撃した。これに対して「全ての芸術の中で、建築はもっとも容易に型[typisch]へ向かいうるし、そうすることでのみ目的を果たすことができる」と主張した。

製品の規格化が、ヘンリー・フォードが達成した方法によって生産の経済性に繋がり、ドイツの経済競争力を向上させられるという議論があり、確かに経済学者や熟練経営者によって採用された解釈ではあったのだが、おそらくこの議論は、ムテジウスや工作連盟の他のメンバーがもっとも関心を寄せたことではなかった。むしろ型はファッション、個人主義、アノミーに支配された大量消費の無秩序な世界に秩序を導入する手段だった。

4.2 Beherns, P

ペーター・ベーレンスがAEG社のためにデザインした製品が「型」として称されたのにも、相当の意味があったのである。

4.3 Le Corbusier

一九二〇年以降は建築にもだんだんと拡大していった。ドイツ国外では、このテーマについてもっとも良く知られた説明はル・コルビュジエの『今日の装飾芸術』(1925)だった。そこでは鋼製の事務机、ファイルキャビネット、旅行かばんが{型としての物|オブジェ=ティプ}と記述され、家具メーカーに認められる「うわべだけの派手な装飾に奔る昨今の狂乱的な傾向」に取って代わる合理的な選択肢として提示された。ル・コルビュジエはこう記した。「われわれはこの型としての物(オブジェ=ティプ)を展開する」方法をアパルトマンに導入しさえすればよい。そうすれば装飾芸術は自らの運命に出会うだろう。つまり型としての家具や型としての建築である」

5、連続性〔continuità〕を達成すること

5.1 Rogers, E.N.

連続性〔continuità〕は一九五〇年代後半に『カサベッラ』誌の編集者だったアーネスト・ロジャースによって展開されたテーマで、三つの関連する概念、「歴史」「コンテクスト」「型」はすべて一九七〇年代、八〇年代の建築言説において重要な用語となった。

5.2 Muratori, S

このような「型」の概念が最初に印刷されて世に出たのは、ヴェネツィア大学の建築の教師である、サヴェリオ・ムラトーリの著書の中だった。一九五〇年に始まった調査を基礎とするムラトーリの『ヴェネツィアの都市史動態研究』1960は、ヴェネツィアの建物区画と空地との形態学研究であった。ムラトーリが自ら同定した「型」という言葉にこめた意義は、歴史学的な地理学者がそれまで抽象的にしか扱わなかった、都市の変遷のあらゆる諸相──成長、環境、集合──を具体的な言葉で明らかにできる点であった。

5.3 Rossi, A

ロッシにとって型は二つのはっきりとした目的に役割を果たした

第一に、建築を与えられた機能から独立させて都市のレベルで考える手段を提供した

第二に、建物の形状や街路のパターンは、建物や街路が様々な機能を担ってきたにもかかわらず、都市の歴史を通して存続してきた。

 

6、意味の追求

一九六〇年代までには建築のモダニズムに対して、建築から意味を枯渇させてしまったとの不満が一般にささやかれるようになった。モダニズム建築家の第一世代が意味を消去したのは善意から──建築が伝統的に担ってきた社会階層の印を消し去るため──であったが、結果的には一九六〇年代に「意味の危機」として知られることになるものを生み出すようになっていた。この問題は確かにロッシの『都市の建築』を生み出す伏線となった。しかしロッシは生涯、この問題全体へ曖昧な距離を意図的にとり続け、決してこの問題を直接表現しなかった。しかし、ミラノの建築家サークルのもう一人のメンバー、ヴィットーリオ・グレゴッティが一九六六年に記し同年に出版した『建築の領域』〔_Il Territorio dell’Architettura_〕では、もっと直接的な注意が意味作用と意味の問題に向けられていた。グレゴッティはモダニズム建築の「意味論的な危機」が部分的には、類型学に関係すると示唆した。彼は十八世紀後半の建築家、特にルドゥーと、彼らの都市環境における公共建築の計画とを振り返って言及し、彼らは「都市の意味の可能性」を打ち立てつつ「型」の持つ意味の問題を管理しようとしていた」と主張した。

第13講-2 真実 Truth

1、モダニズムにおける真実とその後

1.1「真実」は十八世紀後半そして、十九世紀の創造物だった。そして、モダニストたちは、その語が十九世紀の最盛期に獲得した多様な意味を再生産したまでのことであった。過度に単純化された議論として、一般的にモダニストとポストモダニストの間の感受性の主要な差異とは、「真実」への執着もしくは拒絶であったと考えられているけれども、だからといって私たちは「真実」をモダニズムを特徴づける概念とみなすべきではないのである。「真実」とは、二十世紀のモダニズムに特有の概念だったのではなく、以前の世紀から引き継がれたものだったのである。

 

1.2真実批判

1.2.1Venturi, R

『建築の多様性と対立性』(1966)

「私が好む要素とは・・・一貫性のある明瞭なものよりも、むしろ矛盾に満ちた曖昧なものなのである」。

彼の熱意は、バロック建築の両義性に対して向けられており、彼はこの両義性をモダニズム建築の単一性との比較のなかで際立たせた。

『ラス・ベガス』

「真実性」にたいしてより一層批判的ではあったが、ここでの批判は、道徳的基準が建築の価値に対して不適切であるということだった。ポール・ルドルフの設計によるアパートに関して彼らはこう述べている。

「クロフォード・マナーあるいはそれが象徴する建造物に対する我々の批判は道徳的なものではないだけでなく、またそれは、いわゆる建築の誠実さや、実体とイメージ自体との間の対応関係が欠如しているという点にも関わってはいない。[……]我々は、クロフォード・マナーの『不誠実さ』を批判しているのではなく、今日において不適切であるために批判するのだ」

 

1.2.2建築の外部からの批判

1.2.2.1 Baudrillard, J『記号の経済学批判』(1972)

 さて、バウハウスの公式を要約してみよう。全ての形態及び、すべてのモノにとって客観的で決定的な{記号内容|シニフィエ}〔意味されるもの〕が存在する。——すなわちその機能である。言語学では、_{明示的意味|デノテーション}_のレベルと呼ばれていることである。バウハウスは、厳しくこの中心、明示的意味というこのレベルを孤立させることを要求している。——残りのすべてといえば、捨石であり、_{言外の意味|コノテーション}_の地獄である。つまり、廃物、余分なもの、こぶのようなもの、風変わりなもの、飾りのようなもの、役に立たないもの。キッチュということだ。明示されるもの(機能的)は美しく、言外に示されるもの(寄生的)は醜い。さらにいえば、明示されるもの(客観的)は真実であり、言外に示されるもの(イデオロギー的)は虚偽である。客観性という概念の背後では、結局真実についての形而上学的、道徳的なあらゆる議論が危機に瀕しているのである。

すなわち、今日崩壊しつつあるのがこの明示という公準なのである。ついに、この公準が恣意的なもので、方法が人工的なものであるばかりか、形而上学的な寓話でもあるということが認識され始めているというわけだ。モノに関する真実_などいうものはない_。そして、明示されるものとは、言外に示されるもののうちで最も美しいもの以外のなにものでもないのだ。(1981、p.196)

1.2.2.2 Barthes, R『テキストの快楽』(1973)

私の愛するものといること、そして何か他のことを考えること。これこそが、私が最良の着想を得る方法、私の作品に必要なものを創りだす最良の方法なのである。テキストについても同様である。もし、何とかそれが間接的に自らを主張させることができれば、私にとって最良の歓びが生まれるのである。同様に、それを読んでいるときに、私が頻繁に目を離し、何か他のことを聞こうとするのであれば。(1973、p.24)

この主体への〔関心〕の移行によって、作品自体が「真実」を生み出しうるというあらゆる考えは終結した。バルトが述べるように、「批評は、翻訳ではなくて、遠まわしな表現に過ぎないのであり、それが、作品の『本質』の再発見を主張することは不可能である。というのも、この本質とは主体そのものであり、それはつまり不在なのだから。

 

2、 ネサンス期の芸術理論における「真実」:自然の模倣

2.1真実の重視

ルネサンスのネオプラトニズムは、芸術の質として「真実」に価値を置いた。つまり、ある芸術が本来的な理想をいかに忠実に表象するかという点をその地位の基準としたのだ。

アリストテレスとホラティウスがこの観点から最も忠実だとみなしていた詩と劇は、より優れた芸術だとみなされるようになった。そして、ルネサンス期の芸術理論の主要テーマは、本来的な理想を表象する能力において、絵画や彫刻という視覚芸術の同等性を論証することに夢中であった。建築は再現芸術ではないことでこの観点からすると他の芸術と比べて不利な立場にあった。

 

2.2 真実への疑い

ヴィトルヴィウスの権威ではなく、私たちの理性に従うべきなのだ。この議論は建築に対しては見かけ倒しにすぎなかったが、——自然科学ではないのだから——にもかかわらずそれは納得できるものであった。

 自然に対する忠実さへの不満の二点目の理由は、哲学における発展に由来していた。十八世紀後半に至るまで、美と道徳は独立したものとしては見なされていなかった。プラトン、アリストテレス、そして続く全ての西洋哲学において、美と真実は共存しているだけでなく、互換可能な概念でさえあったのである。この見方は、一般に近代美学の父と見なされているシャフツベリー卿によって十八世紀初頭に繰り返されている。「この世界で最も自然のままの美とは、誠実さと道徳上の真実なのだ。というのも全ての美は真実だからである。」

同様の記述が十八世紀の芸術に関する著作にはあふれていた。カントの『判断力批判』(1790)によって初めて、美学が道徳や倫理といった概念から別の一つの学問領域として決定的に確立されたのである。カント以降、真実の観点から美を語ることは哲学上の罪であり、仮に大部分の芸術についての著述家(writerの訳語)がカント哲学の詳細に対しては無知なままに留まっていたにしても、その影響によって、真実は概してより厳格な概念になっていった。道徳と美の間の境界はしばしば脅かされることがあったけれども、「真実」が以前よりも排他的な領域へと変わったのは疑いのないことであり、芸術における真実と欺瞞はもはや穏やかに共存することはできないようなものとなったのである。

 

3、構造的真実

3.1 Lodoli, C 1690-1761

生涯の大部分をベニスで過ごしたフランチェスコ会の修道士だった。ロドゥーリにとって「真実」が重要であることには同意している。ロドゥーリの合理的な原則は、建築を「機能」と「表象」の二つの部分——すなわち、建造物の構造的で静的な特性と、その素材、つまり目に見えるもの——へと分割することに基づいていた。

真実を伴って初めて、理想的な美が認められたのである。しばしば、彼はこのように言うだろう。どれほど水晶に彫面の仕事が多くなされていたにしても、それは本当にカットされたダイヤモンドの横に置かれた時には、精巧な模造にしか見なされないだろう。また、その頬の色が朱色のパウダーによるものであれば、その女性の頬が、血色が良いとは決して思われないだろう。そして、人手による仕事だと分かっている偽物の髪を美しいと呼ぶことはないだろうし、それは、綺麗な髪の毛をまねたかつらが美しいと判断されないのがもっともであるのと同じことである。このようなイメージを建築へも適用しながら、彼は大理石をあたかも木のように使うことは、お金を無駄遣いするのと同じだと考えたのである。[……]どうして私たちは偽りない科学的なそれ自身の形態を大理石に与えることが、より魅力的であるかどうかを探求しようとしないのか。そうすれば、理知的な観察力に対しては歪んだと映るようなものであっても、そうは識別できなくなるだろう

 3.2  Laugier, M-A『建築試論』1753

ロドゥーリと同様に、ロージェ神父も建築からバロックの過剰さを取り除き、合理性によって達成される一般原理の確立を望んでいた。実際、ロージェ神父の原則は、「自然のままの」「自然のままの」という言葉は、ロドゥーリの「真実」という言葉からさほど離れたものではなく、

3.3 Quincy, Q

カトルメールの主張は、全ての彼の先人たちは、建築の「自然」な原型を原初的な木造小屋そのものと考えたところに誤りがあるというものだった。むしろ、カトルメールが述べていたのは、「自然」とは理想的な概念であり、物的な対象——そこに木造小屋も含まれているのだが——とは単にその概念の表現に過ぎないというものである。建築を通じた自然の模倣とは、木造建築の細部を石へと模写することにあるのではなく、その木造の細部が偶然にも表した自然の理想を石へと翻訳するところにある。(註7)したがって、ギリシャ建築は、真実である(なぜなら、その理想の翻訳を忠実に示していたからだが)と同時に、虚構でもあった。

 

紛れもなく、私たちが建築における模造の快を享受できるのは、この幸運な欺瞞を通じてなのだ。このような欺瞞がなければ、全ての芸術に伴い、その魅力でもある快が存在する余地は無いだろう。私たちを虚構の、そして詩的な世界へと誘うこの騙されているかのような快によって、私たちは剥き出しの真実よりもむしろ偽装された真実を好むようになる。私たちは、強い押しつけではないにしても、芸術に虚偽を見出すことを好む。そして、私たちは喜んで欺かれる。なぜなら、その状態は私たちが望む間しか続かないし、いつでもそこから自らを解き放つことができるからである。私たちは、虚偽と同じように真実を恐れている。つまり、誘惑されたいとは思っているけれども、誤った道へと導かれるのは嫌なのである。そして、私たちのこの人の心についての知識に基づいて、あのように親しみがあり、忠実な嘘つきである芸術が、その領域全体を創設したのである。主人をほめてご機嫌をとるのが無類に上手い彼らは、嘘をつくことと同じように真実を話すことが危険を伴うことだと知っている。彼らの巧妙な手口とは、常に真実とも虚偽とも親密さを保っているところにある。(「建築」、1788、p.115)

3.4 Schinkel, K.F.『教科書』1852

の一節の中で、構造こそが建築家に真実を提供すると見なした。「建築とは建造することである。建築においては、全てが真実でなくてはならない。いかなる構造の偽装、隠蔽も過ちである。適切な責務とは、建造物の全ての部位を美しく、その特徴と調和するように創りだすことである。」

3.5 Pugin, A.W.『尖塔様式、もしくはキリスト教建築の根本原理』1841

まさにその表題において、その著書が議論の対象とする領域を示している。このピュージンの著書は、十八世紀末にイタリアやフランスにおいて発展した構造的真実の概念を英語圏に紹介したことだけでなく、最初にゴシック建築と構造的真実の概念とを関連づけたのが彼であったという二点において意義深いのである。

ピクチャレスクなゴシックを通して犯した欺瞞に対するピュージンの強い批判は、単に彼らの構造的な非−真実(untruths)に対しての議論だっただけではなく、社会の荒廃がそうした偽りの建築を生むきっかけであろうという道徳的な議論でもあったのだ。

3.6 Violet-le ?Duc 『建築講話』(1863)

序文において彼が説明するように、この研究の趣旨とは、一つのシステムや様式を他のものに対して奨励することではなく、むしろ「真実の知識」を得ることにあった(vol.1、7)。十九世紀建築が失敗したこととは、「要求及び建設方法と形態との調和」という真実の原理を軽視した点にあった。

いわゆる建築の原則という恣意的な美的基準よりも、むしろ彼は、「幾何学と計算に基づいた原則、すなわち、静力学の原理の精緻な観察に基づく原則は、自ずから真実の表現、つまり誠実さを生じさせるのだ。」(vol.1、p.480)と提案している。

4、表現的真実

4.1 Goethe, G.W.von 「ドイツ建築について」(1772)

建造物の本質、もしくはその制作者の精神の表出として「真実」とをとらえるという考え方は、十八世紀後半のドイツにおけるロマン主義運動の産物であった。その最初の顕著な例は、若きJ.W.ゲーテの情熱的な随想「ドイツ建築について」(1772)に表れた。ストラスブール大聖堂での経験から、ゲーテは、「例の軽薄なフランス人」であるロージェが建築の起源として提示した説明を退けるに至った。「汝の結論は一つとして、真実の領域へと昇華することはないだろう。すべての結論が、汝の論理体系のうちに留まっているのだ。」ストラスブール大聖堂に、ゲーテはその石工であるアーウィン・スタインバッハの際立った才能が表現されていると感じており、大聖堂に真実を与えているのはまさにこの才能の表出であると見なした。建築の起源は、理念化されたプリミティブハットなどにはなく、むしろ、象徴的な形態を生み出そうという人間の本能的な意志にあるとゲーテは提案していた。彼が述べるように、人間は安心な生活が確保されるようになるや、「息吹を吹き込むものを捜し求める。」ゲーテがストラスブール大聖堂にみたのは、この精神、すなわち象徴的形態を創出しようというアーウィン・スタインバッハの天分の表出だったのである。

4.2 Ruskin, J 『建築の七灯』1849 『ヴェニスの石』1853

建築作品がその作者の精神や性格をあらわにする方法、つまり、どれほどその作品の質が作品を産み出す作者の活き活きとした表現にかかっているか、についての議論を展開したのだ。(1849、chapter V、§I)しかし、ラスキンは決してこの性質を記述するのに「真実」という言葉を使うことはなく、むしろ常に「生命」や「生きた建築」という用語の使用を好んだ。

 

5、歴史的真実

 5.1 Winckelmann,  J.J

ヴィンケルマンは、ギリシャ芸術の様式は、素朴なものから、高貴なものへと、そして最終的には退廃的な段階へと発展したと主張した。そして、芸術はある特徴的な形式に従って発展する

5.2 Hegel, G.W.『美学講義』

どの芸術もその分野が花開く時期、そして芸術の一分野として完璧な発展を遂げる時期を有し、この成熟期に前後する歴史を持つ。なぜなら、諸芸術全ての生産物は精神の所産であり、それゆえに、自然の生産物とは違って、このそれぞれの領域において突如として完全になることはないからである。逆に、諸芸術は、その起源、進展、成熟、終焉を持ち、成長し、花開き、そして朽ちていくのだ。

建築は、全ての他の芸術分野と同様に、ヘーゲルが名づけたところの象徴的段階から古典的段階、そしてロマン主義的段階への進展を経験していたのだ。ヘーゲルの、この枠組みの活用方法までは触れないけれども、ヘーゲルが歴史過程を通底する真実を明らかにする特別な能力を芸術に与えてからは、それが属する歴史的段階の特性に一致していない作品は全て非歴史的であるどころか、非−真実であるとまで判断されうるのは明らかである。

5.3Fergusson, J. 『芸術における美の根本原理に関する歴史的研究』1849

科学においても芸術においても、偉大で素晴らしい業績を成したいかなる国家——それはどの時代、どの地域であろうと——が用いた唯一の方法は、過去を振り返ったり、真似ようとすることなしに、着実で発展的に経験を統合していくことによっていたのである

ファーガソンは、十六世紀に至るまではこれらの原則は有効であったが、それ以降に失われ、模倣が一般的なものになったと主張した。歴史的な視点から見たとき、十九世紀の建築は失敗だったのだ。

 

真実の芸術のいかなる規則も私たちの〔時代の〕芸術には適用されないだろう。そして、全ての美の真実の形式を軽視したのは、まさに国の歴史なのである。そして、それは最も実用主義的な要求を満たすことのみに熱心であった。そして、それゆえに、まるで猿のように模倣することに満足していた。彼らは、自分たちが何をしているのか、何故そうしているのか、そして昔の人々が知性を使って、私たちに比べれば半分の手段とひどく粗雑な素材から一体何をつくりあげたのかを理解することはないのだ。(1849、p.182)

 

『世界建築史』に所収された第三巻「建築における近代様式の歴史」はルネサンス以降の建築のみを扱っており、ここでファーガソンは最も明白に歴史的真実を適用した。この時期に真実を扱った全ての論文の中でも最も素晴らしいその序文は、以下の宣言とともに始まる。「それは言い過ぎなのかもしれないが、宗教改革以降のヨーロッパにおいて、完全に真実を語る建築が建てられたことはないのだ」。真実の建築とは、以前に彼が定義したように、「その建築を使用する人々の要求を、最も直接的な方法で満たすという目的だけのために整えられたもの」なのである。世界建築の中で真実であったのは、エジプト建築、ギリシャ建築、ローマ建築、ゴシック建築のみだったので、ファーガソンは驚くべきことに、人々に以下のことを願いながら、偽りの建築にその巻のほぼ五百数十ページあまりを捧げている。

第13講-1 透明性 Transparency

1、 リテラルな透明性

光を透過することを意味し、それによって建物の中や向こう側を見通すことができる。

ラズロ・モホリ=ナギによって同年『ザ・ニュー・ヴィジョン(材料から建築まで)』の中で「透明性」として記述

 

2、 フェノメナルな透明性

中実な対象どうしの間にある見かけ上の空間──は一九五五〜五六年にコーリン・ロウとロバート・スラツキーが連名で書いた二本の記事(「理想的ビラの数学」)の主題である。彼らはジョージ・ケペシュの『視覚言語』(一九四四)から文章を引用して議論を始めている。ケペシュの言う透明性の意味は明らかにキュビスム絵画の空間表現上の手法に関連しており、ロウとスラツキーの議論の初めの部分はこれに割かれている。しかし同じ観念を建築に適用することにより、彼らが示すとおり、「避けがたい混乱」が起こる。

なぜなら、絵画は第三の次元を暗示することしかできないが、建築は第三の次元を抑え込むことができないからである。建築において、三次元が見せかけではなく現実である限りは、文字通りの透明性は具体的な現実となりうる。しかし現象としての透明性は達成がより困難であろう──それに実際、議論するのがあまりに困難であるため、一般的に批評家は建築における透明性をもっぱら素材の透明性だけに関連づけようとしてきたのだ。

そこでロウらは、続いて次のことを示そうとした。ル・コルビュジエのいくつかの作品──ガルシュのスタイン邸、国際連盟競技案、アルジェ業務街区計画──が、暗示された面の重ね合わせによって、実際の空間とは異なる空間的な奥行きのイリュージョンをいかに作り出したか。またそうすることで観者の精神に、ケペシュが言及する「多義的な意味」をいかに作り出したか、である。そして二本目の論考で、ロウらはそのようなイリュージョンが近代建築に特有のものではないこと、例えばルネサンスのパラッツォやミケランジェロのフィレンツェ・聖ロレンツォ教会のファサードの案にも認められることを示そうとする。

 モホリ=ナギの前年に出版され、建築におけるモダニズムの普及にとって同じく重要な別の本、スイス人建築史家・批評家であるジークフリート・ギーディオンの『フランスの建築』(1928)でも、「現象」の側面を思わせる観点から「透明性」について言及している。ル・コルビュジエとオザンファンのピュリズム絵画と、ル・コルビュジエの独立住宅との比較に続けて、ギーディオンは「写真においてだけでなく現実においても、家々の輪郭がぼやけている。そこでは──雪の風景におけるある光の状況と同じように──はっきりした境界が非物質化する。この非物質化によって、上っているのか下っているのか区別できなくなり、だんだん雲の上を歩くかのような感じを引き起こす」と記す。彼の後継者と同様に、ギーディオンはこの効果を発見できたのは画家のおかげであるとした。「オランダ人、とりわけモンドリアンやデュースブルクのお蔭で、初めてわれわれの目は、表面、線、空気といったものから生じうる、ゆらぎのある諸関係へと見開かれた」。

 

3、意味における透明性

この意味での透明性と、モダニズム美学における意義とは、アメリカの批評家スーザン・ソンタグによる『反解釈』(一九六四)の中で最適な説明がなされている。「_透明性_は今日、芸術──そして批評──においてもっとも高貴、もっとも解放に資する価値である。透明であることが意味することは、ある輝きを体験することであり、しかもその輝きは、ものそれ自体、もののありのままの姿の中にあるということだ」(p.13)。形式と内容、対象と意味の間に何ら区別はあるべきではないというこの考えは、すべての芸術ジャンルにおいてモダニズム美学のまさに核心に位置しており、それは建築に限ったことではない。モダニズム芸術の理想は、何ら解釈を要しないことであった。なぜなら、芸術がもつ意味はすべて、作品の感覚体験に内在しているからである。つまり再びソンタグを引用するならば、この理想は「表面が一様ですっきりしており、推進力に勢いがあり、その呼びかけが直接的であることによって……ただそのままにいられるような作品を作ることで、存在する」(p.11)というものであった。他にこの特性を異なった名前で呼ぶ者もいた。たとえばアメリカの彫刻家ロバート・モリスは「現在性」〔presentness〕(1978)、ドナルド・ジャッドは「直接性」〔directness〕と呼んだ。

第12講 構造 Structure

第二部      構造

実際に、全ての建築は構造から進み、建築が目指さなくてはならない第一条件はその構造に合致した外形をつくることにある。

EーE・ヴィオレ=ル=デュク、『講義』第二巻、一八七二、3

英語では何でもかんでも構造と呼ぶが、我々ヨーロッパではそうではない。我々は丸太を丸太と呼び、構造とは言わない。我々は構造という言葉によって哲学的な思考をする。構造は全体である、上から下まで、隅々の細部に至るまで——同じ思考でもって。それこそ私たちが構造と名付けるものである。

ミース・ファン・デル・ローエ、カーターによる引用。一九六一、97

形態という言葉で構造について語ることはできないし、構造という言葉で形態について語ることはできない。

ロラン・バルト、「神話は今」、一九七六、76

建築家は構造を疑わないことになっている。構造は確固としていなければ_ならない_。何といっても、もし建物が崩れたとしたら、保険料(や評判)に何が起こるのだろうか。

バーナード・チュミ、「六つの概念」、一九九一、249

建築に関連した「構造」には三つの用法があった。

(一)建物の全体像として。例えば、サー・ウィリアム・チェンバースは一七九〇年に、「市民の建築は、聖なるものも、世俗のものも、その目的のためにすべての構造を持つ建造者の技芸の一領野である」(83)と言っている。また、一八一五年にサー・ジョン・ソーンは、「イニゴ・ジョーンズ、サー・クリストファー・レン、そしてケントは彼らの趣味の認否を問われ、判断を疑われて、まさに非難されてきた。というのも、彼らは時折、ロマネスクとゴシックの建築を同一の構造の中で混合したからである」(600)と述べている。十九世紀の半ばをようやく過ぎようという頃まで,英語において,これだけが「構造」という言葉の建築における意味として認められたものだった.

(二)ある建物を支持するシステム。他の要素、例えば装飾、被覆、付帯設備とは区別される。これは、先に引用した中で、ヴィオレ=ル=デュクによって示された意味であり、十九世紀の後半に主流となった。

(三)あるドローイングによるプロジェクトや建物、建物の一群、もしくは都市全体や地域がはっきりとわかるようになるための図式。その図式は様々な要素のどの一つによっても同定されうる。様々な要素というのは、最も一般的なのは構造部分の配置、マッス——もしくはその反対つまりヴォリュームや「空間」、さらには相互の連絡や連結の体系である。それらは皆、単独では「構造」ではなく、「構造」を認知する要因を与える記号であるにすぎない。二十世紀における主たる特徴は、「構造」を有すると思われる要素の数が増加したことである。

最初の意味はそのままであって、それについてあまり言及する必要はないだろう。他の二つは複雑なものばかりである。二番目と三番目の意味は切り離されることはできない。なぜなら、実践においては、それらがあたかも別々であるかのようにしばしば語られているにせよ、(二)というのは、実は(三)の特殊な場合に相違ないからである。(二)と(三)の混同というのは、モダニズムの「構造」という言葉の用法のもともとの特徴であるが、(一)の存在によってさらに混同されている(特に英語では他の言語よりもひどい)。構造が_物_であり、さらに言えば建築家が専門家としての知識を特に主張しようとする物だという印象を与えるのである。その結果もたらされた混乱は、次のような一文によってあまりにも明らかである。ブロードゲートにあるアラップ・アソシエイツのためのピーター・フォゴの作品についての、建築家ニコラス・ヘアによる一九九三年の記述である。「外部と内部の諸部分は、この上ないほどの正確さで分節化されているが、構造と建設の階層的な論理によって、首尾一貫した全体に秩序づけられている」。ここでの「構造」が、建物の物理的な支持体を意味しているのか、もしくはまた別の、他の要素によって明らかにされる目に見えない図式を意味しているのかは判らない。

 この混乱を解決する鍵は、「構造」は_メタファー_であり、それは建物に始まったかもしれなかったが、外国での長い旅をした後に建築へと回帰しただけだったと認識することにある。さらに「構造」は、一つではなくて、_二つの_メタファーであり、たがいに違った分野から借用されている。第一は自然科学であり、構造に十九世紀的な意味を与えた。第二は言語学であり、二十世紀的な意味を与えた。一方、他の分野──例えば民族学──では、構造の新しい言語学的な意味が紹介されたときには、古くからの生物学的なメタファーをその分野から一掃するキャンペーンが活発に行われたのであるが、建築では、これは全然起こらなかった。その代わりに建築の分野で顕著であったことと言えば、本質的に相反する二つのメタファーが、一つの用語で、長い間共存することであった。このことは、もともとの、第一の意味での「構造」に大いに関係していることは間違いなく、「構造」に関して、建築家が特権を主張できるようにしている。もし、「構造」の第三の言語学的な意味が、他の意味を退けるがために支持されたならば、この権利は消滅するであろう。なぜなら、個人が話すことで言語を「つくる」と主張しないのと同様に、建築家が構造を「つくる」とは主張できないだろうからだ。

_支持の手段に関わる、全体から切り離された要素としての構造_

 この意味は、主に、十九世紀半ばのフランスの建築家であり理論家であるヴィオレ=ル=デュクに関連している。彼はその意味を生み出したわけではないのだが、その意味を確かに広めた。彼の著作がフランスのみならず、英国やアメリカでも翻訳を通じて獲得した幅広い読者層を通じ、彼は今に至るこの言葉への親しみに一役買っている。何度もヴィオレによって繰り返し発言された、構造が全ての建築の基礎になっているという見解は、彼によるゴシック建築の優越の正当化であった。彼の視点の特徴は次のようである。

【引用はじめ】

十三世紀の建築の形態とその構造[_structure_]とを切り離すことは不可能である。この建築の全ての部材は構造の必要性からの産物であり、これは、動植物界で、有機体の必要性によって生み出されない形態やプロセスは存在しないことと同様である。……形態が構造の要請全てに適応するという本性を持っているので、私は形態が支配されている規則をあなたに提示することはできない。構造を私に与えたとしたら、その構造から自然と生まれた形態を私はあなたに見せるでしょう。しかし、もしあなたがその構造を変えてしまったら、私は形態を変えなければならない。(_Lectures_, vol.1, 283-84)

ヴィオレが古い建物の「構造」を示すために、自身の著作に図示した分析的なドローイングによって、どれほど「構造」が抽象的なものかはっきりする。見る者の視線の下には、石造建築の堅固なマッスは、無に分解し、加重と抑制の純粋なシステムのみを残して他は全く見えない。ヴィオレの「構造」という概念はかなり早くアメリカで取り上げられ、ウィーンで教育を受けた建築家で理論家のレオポルト・エイドリッツや、彼の友人でありアドラーとサリバンの事務所建築の論評で有名で影響力のあった批評家、モンゴメリー・スカイラーによって利用された。エイドリッツは、自著『芸術の本性と機能』(1881)で、「構造」は建築の基礎であるという考えをヴィオレから得たのだが、それをドイツ哲学での観念主義の枠組みの中で使用した。エイドリッツは、建築の主題としての「構造」の完全性を認知する代わりに、基礎にあるイデアが表象されるための手段として「構造」を考えた。「建築家が扱う構造の感情を描くことや、構造の魂をそのまま描くことが、建築家の問題である」(287)と彼が言っているように。エイドリッツが関心を持った大半は、イデアと「構造」との関係である。モンゴメリー・スカイラーは「近代」建築の探究に専心したが、ヴィオレにより近い「構造」という着想を持っていた。そして、スカイラーの記述の中には、物理的な構成要素をもちながら構造の上で抽象化するという不明瞭さが明らかに見られ、それは「構造」の英語における用法の特徴となっている。例えば、一八九四年の「近代建築」という論文では次のように言っている.

これらの高い建物の真の構造、「シカゴ・コンストラクション」は、鉄とれんがの構造である。そしてその構造の建築での表現、もしくは表現しようとする試みを我々が探しても無駄である。石積みを建築で包み込むことに、どんな長所、短所があろうとも、それはたんに包むものであり、物それ自体ではない。物それ自体は内側にも外側にも、どこにも現れることができない。歴史上の建築という形では、構造が表現され得なかったが、その理由のために、構造を表現する試みが先行されてきた。(113-14)

ヴィオレのようにスカイラーは生物学の見地から「構造」を考えていた。「自然界と同じように芸術において、有機体は相互依存関係にある諸部分の集まりである。それら諸部分の構造は機能によって決定され、また諸部分の形態は構造の表現である」(115)というように、スカイラーは生物学者キュヴィエからの引用で論を進めた。ヴィオレの最も有名なイギリス人の弟子はW・R・レザビーであるが、彼は建築の歴史を実験的な構造に大いなる喜びを見出すものとして特徴づけている(70)。フランスにおけるヴィオレの影響は広範囲にわたり、彼の考えを吸収した草創期モダニストの中では、おそらくオーギュスト・ペレが最も有名である——彼は自身のアプローチを記述するなかで、自分がヴィオレから習ったように、「構造」というカテゴリーをつねに使った。例えば、「今日の大きな建物では、基幹構造、つまり鉄や強化コンクリートでの枠組みの使用が可能である。それは建物にとって、動物にとっての骨格と同じである」と言っている。

  建築作品の「構造」と外観との違いは、ヴィオレ以降の全ての建築家や著述家たちが関心をもつ本質的な問題であり、現在思われているほど、当然のことではなかった。構造技術者と建築家の職業的な区分にわたしたちは慣れてしまっているので、「構造」、すなわち建物の他の部分と切り離した属性としての支持体系を語ることは、わたしたちにとっては容易いのだ。この考え方を一般に流布し、この抽象化に対する名前として「構造」を普及した人こそ、ヴィオレであった。一方で、十八世紀後半のフランスの建築と工学での発展のために、彼はそれしかできなかった。アントワーヌ・ピコンが示しているように、建物の慣習とは別に、また「安定性」という仮定された考えとは別に支持体系を記述し分析する能力──言い換えれば、実際のどの建物からも独立して支持体系を考える能力──は、十八世紀末のフランスの技術者が達成したことである(1)。サー・クリストファー・レンやクロード・ペローの作品において、このアプローチに対するより早い先例が存在する。しかしその一方で、このアプローチは、一八世紀末の建築家スフロ、バットや技術者ペロネの作品をめぐる議論において建築上の問題を読み取る効果的な方法としてしか発展しなかった。これらの議論の中で、何が安定的に_見える_かについての認められてきた習慣から離れることに顕著な躊躇いがあり、スフロと特にペロネだけがこのリスクを取る覚悟ができていた。重要なことは、ペロネが自分の議論を紹介した方法であった。一七七〇年の手紙の中で、ペロネは、スフロのサン・ジュヌヴィエーヴ教会の細い窓間壁を擁護し、ゴシック建築の美点を賞揚した。

これら最近の建物の魅力は、動物の形態[_structure_]をある程度模倣して建てられているというところにある。高い、繊細な円柱、そして横リブ、斜めリブと副リブのついたトレーサリーは骨と並びうる。小さな石と迫石〔くさび形の石〕は、四、五インチの厚さしかないが、これらは動物の肉に匹敵する。これらの建物は自身の生命を宿すことができ、骸骨もしくは船体のようであり、それらは似たモデルで構成されているように思える。(Picon、1988、159-160)

これはアルベルティが建物の構成と動物の皮と骨を比較した有名な一節(BookIII、chapter12)のように聞こえるのだが、根底にある目的は全く違っていた(2)。アルベルティは構成部分の接続に関心があったのに対し、ペロネは建物の因習的な規範に関連する、建物の軽さにより関心があった。ペロネの言及に関して、現在のコンテクストにおいて注意する価値があるのは、特に二つのことである。その一つは、ペロネに彼自身の「構造」に対するモデルを与えたのは、建物の建設という単純な加重のシステムではなくて、博物誌であるということである。前述の引用ですでに私たちが見てきたように、後に「構造」に関わる論文を採用した大変多くの建築家たちは、その論文は生物学上のもので、建物のメタファーではないという事実にわざわざ注意を促したのであった(3)。その時、建築において支持体系に対する用語としての「構造」はもともと生物学からのメタファーで、建物からのものではなかっただろう——たとえ生物学の用法それ自体が建物から借用されたかもしれないとしても。

 これによって私たちはペロネによる引用から生じた第二の点に気付くのであり、それはなぜペロネや他の人たちが「構造」の生物学的な意味に大変熱心だったのかを説明している。アントワーヌ・ピコンによると、ペロネが望んでいたことは、建設——もしくは「構造」——の理論であり、建設の実践や建物とは違うのである。_建設_は長い間建築家に親しまれてきた用語であり、原理のみならず慣習や労働実践と一体となって、全体の包括的な建物の実践から成りたっていた。このように、一八世紀半ばのフランスにおいて、ブロンデルは建築を「配置」、「装飾」、「建設」に分けたのであり、おおまかには、用強美というヴィトルヴィウスの三要素に呼応した分け方である。しかし、ペロネや後の合理主義者にとって、「建設」はすべての建物のノウハウや先入見によって妨げられるために、安定に関係する全てを「建設」の名の下でカテゴリー化することは、満足のいくものではなかった。というのは、J・N・L・デュランが十九世紀初頭に述べたように、「建設」は「石工事、大工仕事、建具、鉄材組み立てなど、建築において使われた様々な機械的な技能の解逅を表現している」からだ(vol.1, 31)。「構造」という言葉の重要性とは、建築家が以下のような障害を乗り越え、支持体系を考えられるようになったことにある。その障害とは、二千年にも達する、既存のものに関する知識に由来する、蓄積された慣習的な知恵である。一七七〇年代にペロネは様々な伝統的機械的技能なしに建築を考える手段として「構造」を示したが、実際はペロネは建物に関して「構造」という言葉を使わなかった——スフロへの同じ手紙ではその後、彼は「建設」という用語を使用し続けた——。「私たちは建設[_constructions_]する過程で自然を模倣しながら、耐久性のある建物を少ない材料でつくることができた」などのように。正確には、いつ「構造」が支持体系の抽象化を習慣として記述するようになったのかは明らかではない。例えば、ロンドレによる『建造技術の理論と実践の概論』(1802-17)ではその言葉が使われていなかったし、私たちが現在「構造」として理解するだろう主題は「建設理論」と呼ばれていた。「構造」をモダニズムの概念として最初に使用した一人は、イギリスの著述家、ロバート・ウィリスであり、彼のゴシック建築分析は明らかにフランス合理主義の考え方から影響を受けていた——しかし彼はその言葉自体はほとんど使用していなかった。一八三五年の著述で、後に「構造」と呼ばれるものを指し示すのに、「機械的建設」という言い回しを使ったのだ。ウィリスは次のようにカテゴリーを説明した。

ある建物の建設には、二つのことが観察される。それは、どのように実際に重さが支持されているかということと、どのように重さが支持されているように見えるかということである。前者を私は_機械的_もしくは実際の建設と呼び、後者を_装飾的_もしくは見かけの建設と呼ぼう。これらをはっきりと分ける必要があるのだ。(15)

ウィリスは時々、「建設」の代わりに「構造」を使ったのだが、「構造」によって「本当の」支持体系を意味する時はいつでも「機械的」という形容詞を使って「構造」を限定した。つまり、明らかにウィリスは、自分の読者が「構造」という言葉だけでその近代的な意味を理解することは期待していなかった。『キリスト教建築の真なる原則』の冒頭でのピュジンの有名な定式化(see p.298)は、フランスとイタリアとの合理主義から同じように派生していると思われる。そのピュジンは、「構造」ではなく「建設」を使用していたが、一八四一年の英国では、「構造」と言うだけでは、彼が意図する意味を成さなかった。一八七〇年代になってさえも、イギリスの著述家たちは、具体的な物質から離れて支持体系を示したい時には、引き続き「機械的構造」という言い回しを使っていた。独立したメタファーとして「構造」を広めたことの責任は、フランスでも英語訳においても、ヴィオレ=ル=デュクにある。

 建設の物質的な事実から離れて構造の機械的体系を考えることが可能になり、後に習慣的になった。ひとたびこうなると、「構造」についての論争はほとんど、結果としての作品に「構造」がどれほど見られるべきか、見られるべきでないかに関してだった。これはよく知られたモダニズムの議論である。例えば、ミース・ファン・デル・ローエの一九二二年の論考「摩天楼」を考えてみよう。それはヴィオレ=ル=デュックが(ましてやレオポルト・エイドリッツならさらに)気に入っただろう言い方で問題を提示した。

建設中の摩天楼だけが、むき出しの建設の思考を表しており、そしてその時に、高く聳える鉄の骨組みは圧倒的な印象を与える。壁が立てられると、その印象は完全に壊される。建設の思考、つまりは芸術的に形を与えるのに必要な基礎は、形という無意味でどうでもよいがらくたによって、損なわれ、しばしば抑え込まれる。(Neumeyer, 240)

 あきらかにミースは構造を観念すなわち「むき出しの建設の思考」と見なしており、つまり建物における実際の物理的な現れとは全く別のものとして見なした。しかしその一方で、この区別は、特に英語において、何度立て直されても、常に崩れてしまう。ウィリスらが大変熱心に打ち立てようとしたこと、すなわち「構造」は抽象であり、諸部分の関係であり、現実に目に見えるものではないということは、モダニストの建築家たちによって物理的な対象,物と見なされるという結末に至った。この章の冒頭で引用されている、小屋と構造に関するミースの言及は、このパラドックスに注意を促している。

 ヴィオレ=ル=デュクは機械的、構築的な「構造」を優位に押し進めた。ミース・ファン・デル・ローエや他の多くのモダニストの建築家たちに同意されたが、決してひろく受け入れられたわけではなかった。十九世紀には、ヴィオレと同時代のドイツ人、ゴットフリート・ゼンパーの全く違った建築理論において、構造は最小限の重要性しか置かれず、囲まれた空間を創るという第一の目的に対する全く副次的なものとして扱われた。従って『様式』でゼンパーは、「この空間的な囲いを支え、守り、抱えるのに役立つ構造とは、_空間_や_空間の分割_には直接関係しない条件であった。それは、根源的な建築の思考とは相容れず、当初は形を決定する要素ではなかった」と書いた(vol.1, §60, 1989, 254)。ゼンパーのウィーンの弟子であるアドルフ・ロースは、構造に対する同様の無関心さを示した。というのも「建築の一般的な仕事とは、暖かく生活することができる空間を提供することで」あり、そこにカーペットや壁掛けが貢献できると述べたからである。「床のカーペットも壁のタペストリーもそれらを正しい所に収めるべき構造的な枠組みを必要としている。この枠組みを作り出すことが建築家の第二の仕事である」(1898, 66)。より最近では、構造学的な構造を明らかに第二の地位へと格下げすることこそ、建築におけるもっとも文字通りの意味での「脱構築」となっている。例えば、ウィーンの共同事務所コープ・ヒンメルブラウ(そのアプローチは同胞アドルフ・ロースのものと奇妙とも言える類似性がある)は「初期段階において構造計画はまず優先されるものでは決してないが、プロジェクトが実現される時、とても重要となる」と述べた。皮肉にも、コープ・ヒンメルブラウの作品(○頁の図版参照)や他の脱構築の建築家たちの作品は、構造に対して「合理的」アプローチによって展開された作品よりも、しばしばより構造的な工夫を凝らすことを要求することが判った。ロビン・エヴァンスが言っているように、「建築家の構造からの解放で引き起こされるのは、建築家が解放されるのであって、建物が解放されることではない」(1996, 92)。

 なぜ異なるカテゴリーを「構造」と呼んだかという、より根本的な問題への取り組みは全くないだろう。というのも、これまで見てきたように、「構造」は、神に定められたカテゴリーとはいかず、抽象であって、十八世紀後半に自然科学のメタファーから作り出されたからである。「構造」は日々の建造の実践である「建設」という言葉の規範的な束縛から建築家を自由にするためにあった。この用語の目立った特徴は、抽象として始まり、その重要性が不可視性にあったものが、近代の語法で_物_に変化したことにある。

_建築以外の分野での「構造」_

 「構造」が建築の語彙の一部になったと同時に、他の分野においても展開が起こっていた。建築家や他の人々の双方に対して説得力あるイメージを与えた自然史における、「構造」という概念についてそれが何だったのかということを、手短に考えてみる価値がある。

 十八世紀の自然史の主要な仕事とは、種の分類にある。最初の方式は、リンネによって確立されたが、諸部分を視覚的根拠に基づいて標本を分類することであり、各々、数、形、比率、位置という四つの価値に従って評価される。これらの四つの価値が_構造_を成している。「私たちにとって、植物の諸部分の構造は、その本体を作っている個々の構成と配置を意味する」(Tournefort, 1719; quoted in Foucault, 1970, 134)。ミシェル・フーコーの主張は、この方式はそのように分類された植物と動物の「生命」の特質を見きわめる点で完全に失敗した。実際に動植物は、これら自然史家たちによって記述されると、まったく生物ではないも同然だった(4)。この欠点を克服し、動植物にある生命の質を記述しようとしたのは、十八世紀後半の博物学者、ラマルク、ヴィク・ダジール、キュヴィエらの仕事の特徴であった。はじめは視覚的根拠だけで分類されていた諸部分は、今や、全体としての有機体に対するそれらの相対的な重要性のヒエラルキー、つまり機能に従った定義を必然的に含む図式のなかで分類された。この方式においてもはや、「構造」は、諸部分の相関的な機能を伝える機構となったのであり、目に見える判断基準のみに根ざした特性ではなくなった。その結果、ミシェル・フーコーが記述しているように、「分類……するということは……目に見えるものを目に見えないもの、いわばより深い起源へ関連づけることを意味しよう」(229)。「構造」は目に見えるものと見えないものとの関係づけることができるものであり、「生命」を定義するやり方、すなわち生物の有機的な特性となる。

 博物学者による「構造」の概念の重要性は、ペロネや技師、その後ヴィオレ=ル=デュクに訴えかけるなかでは、何よりもまず、彼らが建物を機能的な諸部分がヒエラルキーに従って配置されたものとして考え、その外見が眼に示す形跡を無視できるようにしたことであった。次に、重要であったことは彼らが建物をまるで生物であるかのように考えることを可能にしたことであり、その概念の下では生物は先に決定されたある考えに従ってその形が決められるのではなく、諸部分の相関的な機能に従って変化するだろうとされた。十八世紀後半の建築家や技師たちのように、古典的な伝統の因習によって規定された定式に疑問を呈したいと思っていた誰にとっても、この有機体の生命の特質としての「構造」の概念が魅力的であったのは、明らかだった。建築家は、他ならぬ博物学者から、諸部分の機械的な機能の関係、つまり建物の視覚的根拠とは別に認識される関係として、自身の「構造」概念を類比によって発展させた。

 「構造」が重要となった他の主要分野(言語学は別で、それは次のセクションで議論する)は社会学である。ここでも、社会学の研究にモデルを提供したのは博物学者の「構造」の概念である。この発展の重要人物は、ハーバート・スペンサーであり、彼にとって社会学研究は自然史の研究と区別がなかった。彼が言うには「まさに生物学がすべての有機体を見渡して、発展、構造、機能のある一般的な特徴を発見したように・・・社会学は社会の発展、構造、機能の真実を認識するべきである」(1873, 59)。スペンサーにとっての「構造」は社会の機能単位であり、彼は「活動の」(つまり生産の)単位と「規定の」単位である教会や法律や軍のような制度とを区別した。社会はサイズが大きくなり、より複雑になるにつれて、その構造もまた複雑になった。「サイズにおいて増大するほど、構造において肥大するというのは、生物の組織体同様に、社会の組織体の特徴でもある」(1876, §215, 467)。「構造」はいつもある特定の機能の結果である。「個々の仕事は個々の構造を必要とする」(§254, 558)。それに「構造の変化は機能の変化なくしては起こりえない」(§234, 504)。スペンサーの「構造」の理論では、私たちがすでに生物学や建築の理論で見てきた、器官の「機能」もしくは建物の構成要素と「構造」との直接かつ決定的な関係の概念が見られる。スペンサーの機械論的な「構造」の概念は、生物学から発展した「構造」の概念が「機能」に結び付けられるその度合いを強調しているだけでも、注意を引く価値がある。しかしながら、スペンサーは十九世紀後半には広く知られており(ルイス・サリヴァンとフランク・ロイド・ライトが彼について言及している)、建築外で「構造」に対するメタファーを探していれば、彼が「構造」に近代的な重要性を与えたという意味で、初期の生物学者と同様に影響力があるかもしれない。スペンサーの社会理論も、次で論じる構造の概念において、根本的な攻撃対象になってしまった。

_物を理解できるようにする方法としての「構造」_

 当初生物学が「構造」のモデルを供していたのだが、二十世紀初頭には、その地位は、その後「構造の真の科学」(Barthes, 1963, 213)を供した言語学に取って代わられた。「言語は相互依存した言葉の体系であり、その体系の中で、言葉それぞれの価値は、他の言葉が同時に存在することによってのみ生じる」(114)というソシュールの前提は、言語研究は言葉が何を意味するかではなく、言葉がどのように意味を伝えるかだけを問うことによって処理されうると示唆した。言語を理解可能にするものは特定な言葉の意味ではなくて、それらが使用されている体系であった。言語の「構造」は、言葉とそれが指示するものとの機能の関係性の問題でなくなり、言語における差異体系の研究となった。「機能」との連結を解かれた「構造」は、二十世紀の言語学の顕著な発展に不可欠なものであった。この言語学は、言語構造において代わりのモデルを作り出す際の、実践者の創造性によって特徴づけられる分野であった。物が理解できるようになる知性の図式として、「構造」の理解が発展してきた他の研究分野のなかでも、構造人類学ほど注意をひいたものはない。人類学者や社会学者は伝統的に、ハーバート・スペンサーのように、社会の制度や実践が何_のために_あったか、そして社会機構においてそれらがどのような機能を提供したかを問うことによって、社会の研究を進めてきた。構造人類学者はこれを無視したのだが,なぜならそれは単に経験的,事例的な社会の記述に至るのみだからであった。その代わりに、構造人類学は、社会活動のすべての生産物を本質的に移転可能で交換可能なものとして扱った。つまりこの体系のなかでは、これらの生産物は、儀式だろうと制度だろうと工芸品だろうと、移転され、代替されるのである。この体系こそがそれら生産物に付随されるであろうある特定の意味や機能というよりむしろ、まさに社会の「生命」であるような構造を示している。これらの用語で考えられる「構造」は、たとえそれら用語を通してそう受け止められるとしても、対象の特性ではなくなるのだ。

 言語学での「構造」の意味を適用するのに最も有望な材料は、建築ではなく空間にある。室内空間は、決まりきって、構造の生物学的/機械的なメタファーという形で議論される──例えば、ロウやスラツキーのル・コルビュジエのガルシュにあるヴィラ・スタインについての言及──その一方で,構造の言語学的意味は全く違った分析の秩序の可能性を与えた。空間は、言語のように物質ではなく、囲われた「建築」空間というよりも「社会的」空間として考えられるときには、社会が構成される際の特性の一つである。人類学者、クロード・レヴィ=ストロースはこのことについて言及し、記述している。

 幾つかの原始社会の構造であると考えられるべき空間の様々な特性に初めて注意を喚起したのは、デュルケムとモースの偉大な功績であった。……しかし空間の形状と社会生活の他の様相の形の特性とを連関させる試みは事実上なかった。これは、大変遺憾であり、というのも、世界の色々な場所で、社会構造と、村落、村、宿営といった空間構造との明らかな関係性があるからである。(1963, 290-291)

彼が続いて述べているように、世界の様々な場所での社会空間と社会構造との明らかな関係性の欠如や、他でその関係性が示す複雑さは、どんな種類であれ、その構造的なモデルを考案することを大変困難にしている。しかしながら、彼自身による『悲しき熱帯』で記述されている南米のボロロの村の分析は、社会空間の構造分析がもつ可能性を示す簡潔で説得力のある例であり、形態学と空間構造の調査の発展を刺激した。

 少し異なった、明らかにより詩的な、新しい言語学の意味での対象への「構造」の関係性の説明が、ロラン・バルトによって進められた。

構造主義的な活動すべての目的とは……この対象が機能する規則(つまりその「機能」)によって示すようなやり方で「対象」を再構築することである。よって構造は、実際には対象の_似姿_であって、しかも導かれ、_興味を持たれた_似姿である。というのは、模倣された対象は、目に見えないままの、もしくは、そちらのほうがよければ、自然の対象のなかでの理解できないままの何かを出現させるからである。構造主義の人は真実を捉え,解体し,再構成する.

バルトが言っている、構造主義的な活動は、「はじめの世界に似た世界における真の構築物であり、それは世界を模写するためではなく、理解可能にするためである」【1963、214-15】。バルト自身のこの例は、「エッフェル塔」(一九六四年)という論文のなかで示されており、そこでは、ユーゴーとミシュレそれぞれに示されている、パリとフランスの文字通りの鳥瞰図は次のようになる。

私たちはそれによって感覚を超越し、_それらの構造のうちに_物をみることができる。……パリやフランスは、ユーゴーやミシュレの筆のもとでは、理解できる対象となるが、──これは新しいことなのだが──どんな物質性も失われないのだ。つまりある新しいカテゴリー、具体的な抽象のカテゴリーが出現する。さらにこれは私たちが今日_構造_という言葉、つまりは知性の形の集積体に与えることのできる意味である。(1964, 242-43)

バルトが著述家や他の芸術家たちができると提案した意味で、建築家自身で「構造」をつくる可能性は、構造主義や記号学が広く研究されるようになった一九五〇年代後半から興味をそそられひきつけられた一つである。この言語学のメタファーへの関心は、五章において、十分に議論がなされている。この受け入れられた建築と言語学との類似性がどのように発展したかという事例は、作品が雑誌『フォーラム』で発表されたオランダの建築家グループ、とりわけヘルマン・ヘルツベルハーによって明らかになった。ヘルツベルハーの見解によると、建築家によって生み出された形は、冷たくて生気がなく、解放するというよりは抑圧的である。彼の目的は、建物の占有者たちによって彼らのやり方で解釈され、完結されるであろう形を展開することにある。彼が意味するところを記述するなら、利用可能な建築の形と個人の解釈能力との関係は、あたかも言語とスピーチとの関係として理解されるだろうと彼は示唆した。そしてこの枠組みのなかで「私たちは基礎をなす『客観的な』形の構造があると思いこんでいる──私たちはそれをアーキ・フォームと呼ぶ──その構造の派生物を所与の状況で私たちは見ているのだと思い込んでいる」(144)。彼の認識では、建築家は、この社会的に確立された「アーキ・フォーム」による既存の構造のなかで働くことに専心しており、決して何か新しく創造できるわけではない。しかしそれでもなお、新しく予想もしなかったものを意味するように建物の使用者が再構成できる対象を建築家は実現するだろう。これらオランダの建築家のあいだでは、言語学的な意味での「構造」の一つとしてこの社会認識と建築との関係を示すことは最もいい加減な類比以上のものではなかった。その一方、この「構造」の衝動、すなわち世界を理解可能にするために体系を発見し、建築的な形で再構築したいという願望は、一九六〇年代後半と一九七〇年代において、建築の主な関心事であったことは強調されるべきである。

 構造主義自らが認めている矛盾や世界を抽象にする傾向があるという理由から、構造主義への反対に転じることもまた、一九六〇年代後半と一九七〇年代の主要な特徴であった。特にアンリ・ルフェーヴルやジャック・デリダの著作において明らかであった。ルフェーヴルが生命を抽象的な概念に転じることに疑問を持った一方で、デリダは、構造主義が根拠としている「理解可能性」という概念を議論した(特に、デリダの論文「人文科学についての言説における構造、記号、遊戯」を参照のこと)。両者の議論は建築において、ある関心を呼んだのであり、建築では一九六〇年代を通じ、言語学のモデルや構造主義の思考がとても魅力的であったのだ。

 バーナード・チュミの一九七〇年代の作品と著述は、「概念の世界へと建築を非物質化する」つまり「言説と日々の経験の領域を分ける」(1976, 68, 69)という構造主義者の傾向に反対することによって動機づけられている。初期の頃から、チュミは「構造」を特別な軽蔑の対象にしていた。例えば「_言語_もしくは_構造_とは、快という文脈に十分に適合しない、建築の読み方に特有の言葉である」(1977, 95)。彼の色々な戦略のなかで、「構造」について問いかけることは、ラ・ヴィレット公園の計画のように、主要なテーマであった。

建築の体系は、それが示す一貫性のために常に注目されることを私たちは知っている。古典時代から近代運動に至るまで……一貫していない構造という考え方は、単に思慮を欠いているのだ。建築の他ならぬ機能とは、すでに理解されているように、非構造化された構造という考えを排除している。しかし、ラ・ヴィレット公園を支配している、重ね合わせ、交換、代替というプロセスによって導かれることとは、構造という概念を根本的に問いかけることにほかならない。(1986, 66)

しかしながら、ラ・ヴィレット公園において、どのように「構造を問題にした」かは明らかとは言い難い。三つ重ね合わされたシステム(グリッド、動きのパターン、表面)を持っているという事実は、「構造」の必要性に疑問を投げかけるというよりもむしろ追認しているのである。しかしこれ以上に、この計画や都市の他の部分が都市の占有者に理解されるためには、知覚の、心的「構造」がいかに必要か、また建築家の権限内にともかくも「構造」があるか否かという問題をこの計画は無視している。チュミによると、デリダはチュミが「脱構築」に興味を示したことに驚いて、彼に「しかし、どうやって建築家は脱構築に興味を持ち得るのですか。結局、脱構築はアンチ・形、アンチ・ヒエラルキー、アンチ・構造で、建築が表象するものの対極なのですよ」と尋ねた(1991, 250)。デリダの最初の驚きは残ったままである。建築の「実践」は「構造」を削除して生き残るだろうか。その結果は何か。その答えは「構造」それ自体と同様に曖昧であり、その質問が生物学もしくは言語学の、どのメタファーに向けられているかに全くもって依拠している。それが生物学であれば、建物の崩壊、形のないこと、カオスに導かれるし、それが言語学であれば、その結果は無知と無理解、結局は主題の絶滅になるであろう。どちらの予想も認めがたいので、「構造」は、その曖昧さにおいて、建築の概念として他の言葉に取って代わられるようには思われない。

原注

(1) Picon, _French Architects and Engineers_, 1992 特にchapter 7を見よ。

(2) アルベルティの『建築十書』の様々な翻訳は、「構造」の意味が歴史によって変容することによる困難を示している。第三書第四章は、「_Reliquium est, ut structuram aggrediamur_」という文で始まる。バルトーリは一五六五年に、これを「_Restaci a dare principio alla muraglia_」と訳し、それを一七二六年にレオーニは「私たちは自分たちの壁を始めることにした」と英訳した。リクワート、タヴァーナー、リーチは、一九八九年に、元のラテン語を「今も我々は構造を扱い続けている」と訳した。これは十八世紀に容認され得るものであったが、支持体系を抽象化したという現代的な意味でアルベルティが「構造」の概念を持っていたという間違った考えに、現代の読者が導かれ、これを誤解する危険性を孕んでいるのである。もう一つ別の個所に、アルベルティは「_structurae genera sunt haec_」(Book 3, chapter 6)と書いており、それはイタリア語に「_Le maniere degli edifici sono queste_」と訳され、レオーニはこれを「様々な種類の構造はこれらである」と訳した。そしてリクワートらはより正確に原文のラテン語を訳して、「これらが様々な種類の建設である」とした──この節は壁を造る方法について言及しているので、この訳は疑いもなく、現代的な用語法において「_structura_」の意味した内容を表している。

(3) Steadman, _The Evolution of Designs_, 1979, chapter 4 はこの点を詳細に述べている。

(4) Foucault, _The Order of Things_, 160-61を参照のこと。この議論が依拠している議論として132-38、226-32も参照のこと。

【図版214-01】277ページ

アラップ・アソシエイツ、No.1(フィンズベリー大通り、ブロードゲート、シティ・オブ・ロンドン、一九八二〜八四)。「構造と建設の階層的な論理」。しかし「構造」は目に見えるのか。

【図版214-02】278ページ

聖域、サン・ル・デセロン(オワーズ)。ヴィオレ=ル=デュクの分析的なドローイングでは、見る者の視線の前に、石造建築の堅固なマッスは、不安定な点に分解し、結果的に「構造」を露わにする。

【図版214-03】279ページ上

J−G・スフロ、サン・ジュヌヴィエーヴ教会・パンテオン内部(パリ、一七五七〜)。スフロの円柱のか細さは、安定性についての関心を喚起し、動物の「構造」との比較を促した。

【図版214-04】279ページ下

カバの骨格、キュビエ『化石化した骨』一八二一年、一巻より。カバの重量は、一番小さな骨で支えられている。

【図版214-05】281ページ

ミース・ファン・デル・ローエ、建設中のレークショア・ドライヴ860-880(シカゴ、一九五〇)。「建設中の摩天楼だけがむき出しの建設の思考を表している……」。

【図版214-06】282ページ

コープ・ヒンメルブラウ、フンダー=ヴェルク3(St Veit/Glan、オーストリア、一九八八〜八九)。建築家の「構造」からの解放は、必ずしも建物の解放を意味するものではない。

【図版214-07】285ページ

B・チュミ、空虚な升目、ラ・ヴィレット公園のためのドローイング(パリ、、一九八五)。チュミのラ・ヴィレット公園の計画は、「秩序」と「構造」の両方の一般に受け入れられていた考え方に疑問を投げかけた。

(上)「点、表面に重ねられた_フォリー_のグリッド」。

(下)「線と点が結合する──ギャラリーと映画の遊歩道が_フォリー_で衝突する。」

第11講 空間 Space

一八九〇年代以前に、用語としての「空間」は、単に建築上の語彙としては存在していなかった。空間という用語が適用されることは、モダニズムの発展と親密に結びついている。よってそれが何を意味していようとも、まさにモダニズム特有の歴史的な状況と関係があり、「空間」のパートナーである「形態」と「デザイン」にも同様の事情がある。

1、建築用語哲学用語

1.1精神の属性としての空間 

「空間」は、私たちが世界を知覚するための精神の属性という装置の一部でもある。

1.2        建築のカテゴリーとしての空間

ドイツで生まれた言葉、空間という意味のドイツ語の「Raum」は、物理的に囲まれているものである部屋と、哲学的な概念とを同時に指し示す

2、モダニズム建築における空間の前提1

 2.1 Semper, G

ゼンパーは建築にとっての最初の衝動は空間を囲むことにあると提案した。物質的な構成要素というのは、空間を囲むことにとって副次的でしかなく、よって「壁は、そのように囲われた空間を明示的に具現化し、視覚化する建築要素である。」(『様式』1863、p.254)囲うことが物質よりも優位にあるというこの言及でも、他の言及の中でも、建築の将来は空間を創造することにあるとゼンパーは提案した。

二十世紀初めの十年において、建築の主題としての「空間」を初めに打ち出したドイツ語圏の初期近代の建築家たちにとって、ゼンパーが彼らの空間という概念の源であることに疑問の余地はなかった。

2.2 Loos, A, 1898「被覆の原則」

「建築家の一般的な仕事は暖かで生活しやすい空間を提供することである」とゼンパー的な用語で主張をし、さらに続けて、「空間の素材と形態の双方から効果が生み出される」と述べていることがわかる。

2.3 Berlage, H.P. 1905「様式についての考察」

「建築は空間を囲う術であるので、私たちは空間の建築構築上の性質を構造上の意味と装飾の意味の双方において強調しなければならない。この理由から、建物は第一に外側から考えられるべきではない」、

これら全ての建家が一九二〇年代のモダニズムの世代に深く影響を及ぼしており、彼らによる空間の定式化の重要性は、ゼンパーのモデルに従いつつ、空間を_囲うこと_の問題として見たということにある。

2.4 Sitte, C 1889『芸術原理による都市計画』

ジッテは都市デザインを「空間の芸術」(Raumkunst)として考えたのであり、彼の都市計画への方針は囲まれた空間を創り出すという原理にすべて基づいている。他の建築家たちが空間を囲うことを純粋に室内の見地でしか捉えていなかったのに対し、ジッテは巧みにも、この建築のテーマを戸外の空間に解釈し直した。「空間」が建物の内部のみならず戸外に帰属していたというこの洞察が、一九二〇年代には大変重要になった。

3、モダニズム建築における空間の前提2

3.1  Kant, I

をカントによれば、空間は心の属性であり、装置の一部なのであって、それによって心は世界を認識可能にする。カントは『純粋理性批判』(1781)のなかで、彼にとって空間が何を意味するのか略述した。彼が書いているところによれば、「空間は外的な経験に由来する経験的な概念ではない」(p.68)。「空間は事物それ自体の属性を表すことはなく、事物の互いの関係性を表すこともない」(p.71)。その代わりに、「空間は純粋な本性として先験的に心に存在し、そこではすべての客体が決定されている」のであり、さらに「空間はすべての経験以前に、これらの客体の関係を決定する原理を含んでいる。心的能力としての空間が美的判断のために機能する可能性はカントによっては展開されなかった。

3.2 Schopenhauer, A 1818『意志と表象としての世界』

「建築は第一に、我々の空間感覚のなかに存在し、よって空間感覚に対する我々の先験的な能力に訴えるのである。」(vol.3,p.187)と言っている。しかしこの空間感覚は、一面的な見方でしかなく、一八七〇年代になって感情移入の理論が発展してはじめて、空間感覚からどんなものでも作られることになった

 感情移入の理論に立ち返ると、一八九三年に三つの注目に値する──しかもそれぞれが独立して見える──論文がほとんど同時に発表されるまで、ショーペンハウアーの言及によって提示された可能性は、まだ議論されないままであった。

3.3 Hildebrand, A  1893 『造形芸術における形の問題』

ヒルデブラントは建築の理解において友人であるコンラード・フィードラーに影響されており、そのフィードラーはゼンパーを読んだことで、ゼンパーが建築の根源的な衝動と定めた、囲われた空間それ自体が建築における思考の第一の対象であるという示唆を得た

ヒルデブラントは、形態の明確な観念に到達するときに、空間における両目と身体の両方の動きを強調した。視覚芸術の役割とは、一つのイメージにおいて、客体が存在している自然の空間と客体の形態を明らかにする、見る主体の動きとを再構成することである。ヒルデブラントが形態を理解する前提として空間を強調したことは、それを記述する仕方と同様に独創的であった。

ある空間連続体〔spatial continuum〕によって、私たちは空間を三次元の広がりとしてだけでなく、私たちの想像における三次元の可動性もしくは筋感覚の動きとして捉える。このもっとも本質的な属性は連続性である。それでは空間連続体を水のかたまりであると想像してみよう。それによって水中に容器を沈めることができ、それによって水中の一つの連続したかたまりとしての全体の概念を失うことなしに、明確に形成された個々のかたまりとしてそれぞれのヴォリュームを規定することができる。

もし私たちがこの自然の空間の外形を全体として視覚化する仕事に取り組んだとしたら、その時私たちは、その空間を、三次元的に、ある部分は個々の対象のヴォリュームで、そしてある部分は空気で占められたヴォイドとして想像しなければならない。そのヴォイドは外部的に制限されたものではなく、むしろ内部で活性化されたものとして存在している。まさにある対象の境界や形態がそのヴォリュームを示すのと同時に、対象それ自身によって仕切られた空気のヴォリュームという考えを喚起するやり方で、対象を構成することもまた可能である。ある対象の境界というのは、厳格に言えば、それを取り囲む空気のかたまりの境界でもある。

? 空間それ自体が芸術の主題

? 連続体であり、

? その内部から活性化される。

 他の芸術で芸術家は、人物像または生命のない物によって空間を表象しなければならないのに対して、建築ではその必要性がない。というのも、空間は直接的に理解され、他の対象によって空間を再構成する必要がなく、空間それ自体が視覚に関係している形態_である_からである。そして以前の建築評論家全てが、ゼンパーも含めて、壁、もしくは耐力部材を建築がその主題を伝えるために依拠している要素として見ていたのだが、ヒルデブラントは、これらは「統一的な空間のイメージの効果においてのみ特定の相対的な価値をもっている」と議論するに至った

3.4 Schmarsow, A 1893『建築創造の真髄』

ヒルデブラントと同様に、シュマルゾウは建築の空間と形態とを等しく見なしている。しかしこの点において、この二人の著述家の空間についての観念の類似性が消失する。シュマルゾウは自身の包括的で独創的な「内部からの美学」に着手し、それは感情移入の理論──事物を知覚するのに、精神が身体感覚の知識を事物に投影すること──に由来している。しかしこの感情移入の理論はこれまで、もっぱら中が密な対象を知覚するためにあったのだが、シュマルゾウは巧みにもそれを空間と引き合わせたのであった。私たちは世界を身体で経験することから始まり、様々な視覚および筋肉の感覚をとおして空間を直観する。

シュマルゾウにとっては、私たちが身体をもつがゆえに空間は存在するのであり、「要するに空間の構築物とは存在している人間から生まれたものであり、主体内部からの投影であるので、私たちが物理的に空間内にいるのか、または精神的に自分を空間に投影しているのかは関係ない」。言い換えると、造られた空間というのは、主体の身体特有の空間感覚の三次元における陰画であり、また彼が後に記したように、「私たちは空間の構築物を自分の外部にある身体として、それ自身の組織体とともに知覚している」。

 事実これらのたいへん示唆に富んだ考えは、それらの可能性において、一九二〇年代においてさえ建築家の間に流布していた建築空間の理解の範囲をはるかに超えていた。特に

 

3.5 Lipps, T 1893 「空間の美学と幾何学的‐視覚的錯覚」

リップスは感情移入の理論を展開したことでよく知られているが、空間の美学をリップスはこう説明した。「空間形態の美とは、その中で自由に動くという理想的な感覚を持ち続けることができる私の能力のことである。これと対照的に、醜い形態では、私はそれをすることはできずに、その中で自由に動き、その形態を観察したいという私の潜在的な衝動は妨げられて不可能にされる」。このリップスの理論はシュマルゾウの理論とはきわめて異なっている。というのは、リップスは囲うこととしての空間という概念を全く持っていないのであり——むしろ彼は、物質の内部にある生命を視覚化するやり方として空間に関心を持っていた。リップスの考えは、ヒルデブラントやシュマルゾウの考え方に比べて、建築にとっての固有性をより欠いている

 

4、「空間」から「空間性」へ

4.1 Riegl, A  1893『美術様式論』

芸術の発展が、付随的な外部の要素、つまり目的、材料、技術との関係において把握されるのではなく、内部の発展で把握されるということである。この内部の発展は、次々とおこる歴史上の段階それぞれで人々が様々な美的な知覚を持っているという見地からはじめて理解されうる。次の著作『後期ローマの芸術と産業』(一九〇一年)でリーグルは、古代の作品に現れる見方の違いは、主に空間性という感覚の変化の見地から理解されるべきであると唱えた。リーグルは建築に関する議論を次のように始めた。

後期ローマ建築の特異な性格は、空間の問題に関することである。後期ローマ建築は、空間を三次元の物理的量として認識しているので、近東の建築や古典建築とは異なっている。とはいえ空間を、無限で形がない量としては捉えてはいない──だから後期ローマ建築は近代建築と分けられる。

物質的な世界を解釈できる人間の心的能力が実際に歴史上の進歩をたどってきたとすれば、この進歩の証拠は、建てられたものとしての建築空間の進化のなかに見出されるべきであるという仮定である。

4.2 Frankl, P 1914 『建築史の基礎概念』

空間が建築史の本質的な主題であるというシュマルゾウとリーグルの提案に倣って、ルネサンスとルネサンス以降の建築の空間に関する分析の図式を展開した。フランクルが主に貢献したことは、初期ルネサンスの建物の「加算的な空間」とルネサンス以降の「空間の分割」とを区別したことにある。フランクルが加算的な空間〔という言葉〕で意味することは、建物の空間性は個別の仕切られた部分の連なりによって建設されるということだ。例えばバロック教会では、この仕切りが壊され始めた。

一五五〇年以降に展開され、加算的な空間と対極にあるのが空間の分割である。ここでの空間の分割とは、区切られた部屋の連なりとして構成された空間というよりむしろ、全体を通じ「空間の滑らかな流れがある」ものであり、

復習

(一)_囲うこととしての空間_。この空間はゼンパーが確立し、ベルラーヘとベーレンスによって展開された流儀に近いものだろう。一九二〇年代初期のほとんどの建築家にとって、これは最も一般的に理解されていた「空間」の意味である。まさにこれこそアドルフ・ロースの用語ラウムプランと一体化された意味であり、ロースがはじめて一九二〇年代に自身の住宅のヴォリュメトリックな室内について記述するのに用いた言葉であった。

(二)_連続体としての空間_。室内と戸外の空間が連続しており無限であるという考え方は、オランダのデ・スティルのグループやエル・リシツキーやモホリ=ナギがいたバウハウスのグループにとって重要であった。この考え方は戦前の著作、歴史家アルブレヒト・ブリンクマンによる『広場とモニュメント』(一九〇八年)の中で提言されていたのだが、この主題の展開こそが一九二〇年代に空間を考えるにあたっての、最初の見解の一つであった。この考えを最初にしかも明確に実証したものの一つが、ウィーンの建築家フレデリック・キースラーによるシテ・ダン・レスパス(空間のなかの都市)であり、これは一九二五年のパリ博覧会でオーストリアのパビリオンに設置された。キースラーは『デ・スティル』七号で次のように記述している。

については後に議論する)。

(三)_身体の拡張としての空間_。あるヴォリュームの中で想像される身体の拡張という見地から空間が認識されるという考え方はシュマルゾウから知られた。しかしながら、バウハウスの教授であるジーグフリード・エベリング【要注意】は『膜としての空間』(一九二六年)の著作の中には、この考え方の独創的な変形が登場した。この著作のミース・ファン・デル・ローエへの影響がフリッツ・ノイマイヤーによって最近になって指摘された(註10)。エベリングは空間を膜、つまり木の樹皮のように、人間と外部の世界との間にあり保護して覆うものとして捉えている。よって空間は、人間の行動によって直接形成され、人間の外部との関係に同一化された。空間は人間の生物学的な感覚によって形成され、人間の動きや生活への欲求によって活性化される「連続した力の場」となった。この空間に関するきわめて実存的な見方は、モホリ=ナギの『新しいヴィジョン』で言及されている。

 

5、ハイデガーとルフェーブル

5.1 Heidegger, M

  ハイデガーによる空間の理解とは、カントが提唱したような、世界を知覚する心の属性でもなく、さらに空間とは、世界に人間の存在がある前に存在するものでもない。つまり、世界にある存在から独立したところに空間があるわけではない。「空間は人間に対峙しているものではない。外部の対象でもなければ内部の経験でもない。人間がいて、その向こうや上方に_空間_があるというわけではない。」(「建てること、住むこと、考えること」358)この議論が最初に現れたのは、『存在と時間』(1927年)においてであり、そこでは次のように根本的な提案がなされた。「_空間は現存在の中には存在しないし、世界が空間の中にあるわけでもない_。空間は現存在の中には発見されないし、「あたかも」世界が空間の中にあるように現存在が世界を見ているのではない。しかしその「現存在」[Dasein]は、もし存在論的によく理解されているなら、空間的である」(『存在と時間』p.146)。空間性が世界内存在と私たちが遭遇する際の主要な様相であるのに対し、このような空間は事物から離れて知られるものではなく、他の事物との関係においてのみ知られ得るのだ。ハイデガーが書いているように、「注意深い世界内存在が予め考慮している、常にすぐ手にできるものは、そこにある。すぐ手にできるものの「場所」は、他のすぐ手にできるものに向けて方向づけられる」(『存在と時間』p.137)。そして彼は家の部屋がもう一つの対象である太陽との関係において方向づけられる方法を例として挙げている。そして「事物がある区域は_その_場に何かがあることを見落とさない限り、そのような区域として接近可能にはならない。」と指摘した。(『存在と時間』p.138)

  一九五二年の「建てること、住むこと、考えること」の論考でハイデガーは、建物とのより具体的な関係においてこれらの考えを述べていた。ハイデガーはこの主題について——慣習的な建築上の思考とは反対に——「建物は決して「純粋な」空間を形にしてはいない」(p.360)ことを強調した。むしろ、彼が議論しているのは、空間の中にある客体によって創造される存在としての「空間を占めるもの[locale]」(『存在と時間』でwhereの代わりに使われている用語)を見るべきであるということだ。「_したがって、空間は「空間」よりも空間を占めているもの〔locale〕からその本質的な存在を受け取る_」

5.2 Eyek, A. van

「場所」が「空間」の座を奪ったことである。1961にアムステルダムの孤児院について書いている。

私は、空間と時間が何を意味しようとも、場所と機会がより多くを意味するという結論に至った。というのも人のイメージの中で空間は場所であり、人のイメージの中で時間は機会だからである。決定論的な思考による精神分裂気味のメカニズムによって、時間と空間は引き裂かれ、氷ついた抽象のままである。……よって、家は場所の集まりであり——都市もまた場所の集まりである。(

5.3 Norberg-Schulz『実存・空間・建築』, C / Bachelard, G『空間の詩学』

を通じて与えられた、ハイデガーの考え方の解釈が、建築にとってより影響力があったというのは、おそらく正しい。

5.4 Lefebvre, A 1794 『空間の生産』

「空間」に関する最初で最後の包括的な批評であり、

?空間は概念的であると同時に物理的であり、社会関係の具現化でありイデオロギーの具現化である。建築作品が目指すものの一つには、思考によって生産された空間と、そこで思考が生じる空間との関係性の性質を明らかにすることがある。この分裂はすべての社会の特徴ではなく、自身の主要な目的の一つは、むしろ近代文化の特徴としてこの分裂に対峙することだとルフェーブルは強調した。

?「社会的空間」

社会的空間とは、社会の文化的な生活がその内部で生じているもの、すなわち個人の社会的な行動を「組み込んでいる」(p.33)ものであり、その空間はまず(日常生活の社会的な関係を通じて)知覚され、(思考によって)心に抱かれ、そして(身体的な経験として)生きられる。西洋の歴史全般の傾向として、社会的空間全体を抽象に翻訳してきたことがあり、ルフェーブルはその抽象を便宜的に「心的空間」として記述することで示している。ルフェーブルの課題とは、社会的空間を再び意識させることである。「社会空間が、一方では(哲学者や数学者によって定義された)心的空間から、他方では(習慣的、感覚的行為や「自然」の知覚によって定義された)身体的空間から、区別せずにはいかなくなるくらいに、社会空間はその特異性において明らかにされるであろう」(p.27)。

?「建築空間」と「建築家の空間」

「建築空間」は、人々がそれを経験するおかげで、社会空間を生産する手段の一つとなる。

一方で「建築家の空間」はルフェーブルにとって憎悪の対象である。「建築それ自体に関するすべての定義が、前もって空間という概念を分析し開示することを要求している」、心的空間と身体的空間の分裂に対して誰よりも責任がある。建築家は、その分裂を、意識を支配し操作する主体に自らが奉仕することで、補強し永続させてきたのだ。

建築家に与えられた空間はユークリッド幾何学の中立的で透明な物質ではなく、むしろすでに生産されたものである、というものである。「この空間は全く純粋無垢ではない。それは特定の作意や戦略に応じている。それはたんに生産を支配している{様式|モード}による空間でしかなく、よって資本主義の空間である」

もし、建築家が「完全な自由」という条件のもとで自分が創造していると思っているならば、彼らはだまされているということだ——というのも、建築家の目は彼ら自身のものでは全然なくて、目は彼らが生存している空間を通じて形成されているからである。

第三には、建築家が用いる装置は、——例えばドローイングの技術であるが——透明で中立な媒介物ではなく、それ自体が力を持った、ある種の言説であるからである。さらには、ドローイングという実践それ自体が、重要な手段の一つであり、それを通じて、社会空間は、交換の目的のために均一化された、さらには生きられた経験から流れ出て抽象に変えられる。

第四には、建築家によって実践されるドローイングの技術は、まさに建築の実践全てであるが、それは他の感覚のなかでも、視覚を特権化し、イメージや壮観が現実に置き換わる傾向を支えている。これもまた近代資本主義の中ではっきり示されている傾向である。

第10講 オーダー Order

1、部分と全体の関係を通じて美を達成すること

1.1Vitrivius

建築は、ギリシア語でタクシスといわれるオールディナーティオー[オーダー]……から成り立っている。オールディナーティオーとは、ディテールを個別的に整えていくことであり、全体としては均整のとれたものとなるように比例的な整理を行うことである。

アリストテレスの「タクシス〔taxis〕」という概念に由来

1.2 Aristotle 『形而上学』 『詩学』第七章

「美の主たる形相は{秩序|オーダー}、{均斉|シンメトリー}と限定された大きさによるものであり、これらは数学的な科学がとくに強く表しているものである」

「生物であれ、いくつかの部分から組みたてられているどのようなものであれ、美しいものは、これらの部分を秩序正しく配列していなければならないばかりでなく、その大きさも任意のものであってはならない。というのも、美とは大きさと秩序にあるからだ」。

1.3 建築は何に秩序を与えるのか、何に由来するのか

物質なのか?空間なのか?流れか?知覚か?それとも社会的関係なのか?秩序が何に存しているのかが言いえて始めて秩序の概要を作ることができる

もしわれわれが建築に「{秩序|オーダー}」を見いだすとすればまず抽象として認識したものを改めて物として再構成し直すこと

 精神・

数学 

自然 カトルメール・ド・カンシ-

結晶と鉱物組成 ジョン・ラスキン

動植物の成長パターンダルシー・トンプソン

1945年以後 オーダーへの関心は知覚心理学、人工世界の秩序において鍵となる人間の知覚研究へと移行

2、社会階級 序列 の表現

 2.1decorum ふさわしさ

Vitrivius 『建築書』第五章第六書

「それ故この方式に従ってそれぞれの種類の人たちに対し、……建物が配置されるならば、批難されるようなことは一つも起こらないであろう」

2.2 Wotton, Hの『建築の原理』(一六二四)

「それぞれの人物にふさわしい大邸宅・住宅は主人の階級に応じてふさわしくまた魅力的に装飾されるに値する」

 

「デコールム」がこれだけ敏感な問題となったのは、十六世紀の住宅建築の奢侈を巡って展開した社会的言説が原因である。一方で財産を持つ者(とりわけ政治的な職務を占める場合には)は贅沢に建設する義務があると考えられた。他方で、壮麗な建物は社会的地位の低い人々の妬みを掻き立てる。彼らの上流階級の奢侈を真似ようとする傾向が、最初にあった階級差を解消してしまい、社会的ヒエラルキーの存在すなわち市民秩序を脅かしたのである。このような緊張関係は十六〜十七世紀のヨーロッパの至る所で感じられた。このような要求を規制するため、すなわち社会的ヒエラルキーを守るために「デコールム」——施主の地位にふさわしい建築装飾の形式——という概念が発達したのである。フランス革命の後デコールムへの関心は衰退する。おそらく社会階級を守るための役に立たないということが証明されたからだろう。二十世紀にも何がしかの意味を残していたデコールムだったが、それすらもラッチェンスのような建築家によって最後には一掃されてしまった。彼はブルジョワ向けの小住宅を貴族の大邸宅の様式で建設したのである。

2.3Bentham, J パノプティコンの計画

「厳格な規則性の感覚」を生み出した。一七八〇年代後半に練られたパノプティコンは、それがなければ秩序のない混沌とした世界のなかに、秩序ある関係を再建するべく計画された建築のもっとも明快な実例である。

 

4、都市の無秩序を制御すること

4.1誤解

都市には秩序があり、さらに規則正しい外観を与えられた建物・街路・広場をもつ都市は秩序をもっていると考えられていた。この考え方の芽はアルベルティのなかにある。しかし言っておかねばならないのは、外観が秩序づけられているように見える場、社会には秩序があり、規律正しいという仮説は、近代の誤謬の最たるもののひとつであったということだ。しかしながらこの誤謬はアルベルティからオスマン男爵、ダニエル・バンハムそして一九五〇年代から六〇年代のマスタープランナーに至るまで都市計画の唱道者たちによって当然のことと思われてきたのだ。たとえばサント・ペテルスブルクやパリの二十世紀の歴史は、物理的秩序をもつ場所は政治的に安定しているなどという主張に根拠などないことをただちに明らかにすることになる。

4.2 Venturi, R 『ラスベガス』

ほとんどの人々が混沌だとして退けている都市の光景も、注意深く見つめるならば実際にはある秩序が明らかになると主張しているのである。「おそらく卑俗で蔑視されている日常の景観からこそ、われわれは複雑で対立する秩序を引き出すことができる。その秩序はわれわれの建築に対して都市の全体としての根拠と活力となるに違いない」(10これが『ラス・ヴェガス』で追求されたテーマである。

 

5、無秩序への関心

 5.1 Aalto, Aウォルフブルグ文化センターWolfsburg Cultural Centre

異なる各部に対してそれぞれ別個の幾何学システムが適応された建築として興味を引いた。ヴェンチューリはディミトリ・ポルフィリオスによる長さについて書かれた文章の中でこの建物についてコメントしている——けれども、多様な内部空間とは異なり、全体的な形式は強く統一されている。

5.2 Le Feabvre

ルフェーブルは近代世界で顕在化している還元主義的なあらゆる思考形式——ひとつの概念を特権視しすべてをその概念に適合させる傾向——に批判的であった。専門家が展開する還元モデルはとりわけ危険なものであった。なぜなら、ある実践の枠内にのみ適用されるとき、専門家が強制する秩序には自己正当化と自己目的化が伴うからである。「アーバニズムと建築とはこのよい例を与えてくれる。労働者階級はとりわけこのような『還元されたモデル』——空間・消費・いわゆる文化モデルも含む——の結果に苦しんでいるのである」。

5.3 Tschumi, B

 チュミは「秩序」はまったく放棄すべきものだと主張したのではなく、たんに「秩序」には疑問の余地があると主張しただけだと。そして他の「秩序」を全く欠いているように思われる建築家——コープ・ヒンメルブラウやモーフォシス——がどれほど自分たちの建物のデザインと建設プロセスを秩序のない包括的なものにしようと努力していても、開放系ではあるにせよ「秩序」に驚く程強い執着をもっているのである。モーフォシスのトム・メインは、一方で建築はその不完全性によってモダン・カルチャーの流れを反映すべきだという考えを指示しながらも、他方では「われわれに重要なことは一般的で多義的な一貫性あるいは秩序を規定し、そのなかで創ることである」と主張するのである(8)。最近の建築評論家であるポール=アラン・ジョンソンは、「今日多くの建築家にとって、建築における秩序はあまりに周知のことなので、改めて関心を抱くほどではなくなっている。」(240)と述べている。しかしたとえ「秩序」が三〇年前に比べて語られることが少なくなったというのが事実だとしても、それは秩序が「あまりに周知のこと」になったからではまったくないのだ。むしろその理由は秩序について語ることがあまりに難しくなったことにある。なぜならば秩序が提起する問題はあまりに広くまた危ういものだからだ。もし建築が「秩序」を創造しないならば、もはや建築などまったく必要ないだろうし、環境の変化のプロセスはなすがままに任される。しかし建築がもし「秩序」の産出に関わっているのなら、自らの手には負えない広範な領域の影響を受けることになる——すなわち「文化」という名のもとで、経験が純化され、変形され、還元された形でわれわれに送り返されるプロセスのうちに建築も巻き込まれることになる。このような状況で初めて、なぜ建築家が「秩序」の問題について沈黙を選ぶのかがよく理解されるだろう。

第9講 自然 Nature

1、 建築における美の根源としての自然

1.1 Plato 『ティマイオス』対話篇

建築における美の議論の源流となるモデル。

自然の中のものはみな数的比例ないし幾何学に支配されるというプラトンの考えを持ち出して、新プラトン主義者たちは人間精神を満足させる限り、芸術は同じ原則に従うと議論

1.2 Alberti L.B.『建築論(建築十書)』15世紀中期 

均斉〔concinnitas〕(各部に関して、また全体に関して、諸部分の優美な配置を基礎づける調和の原則)の理論を説明づける箇所で、建築のモデルとしての自然の意義が明らかになる。

「 全体においても諸部分においても、均斉は自然自体においてと同程度には広がらない。……自然が生み出す全ては均斉の法則に規定され、自然の主要な関心とは、何であれ自然が生み出すものは絶対に完全であるべきだということである。……このように結論しよう。美とは、一定の数、外形、位置による、本体における部分の共鳴と調和の形式であり、均斉、つまり自然における絶対で根本的な規則が命じるとおりである。これは建てる術の主要な目的で、その尊厳、魅力、権威、価値の源である」

1.3 Perrault, C『五種の柱の配列』(一六八三年)

建築美が自然に基礎づけられるという考えへの最初の明らかな挑戦。建築の比例関係に対する自然の優越をペローが否定したのは、実際、顕著で徹底しており、以後二世紀以上にわたる、建築と自然の関係に対する、根本的な再考の先頭を切った。

「 自然の模倣も理性も良識もけっして、柱の諸部分の比率や{規則|オーダー}通りの配置に見られると主張される美の基礎を構成しない。実際、それら諸部分から与えられる快には、慣習以外の源を見出すことができない。」

ペローの議論は、美が対象に宿るとの考えの最終的な終焉、そして美が見る主体の構成物であるという考えへの交替、これらの嚆矢となった

 

2、建築の根源

2.1Vitruvius『建築書』第二書第一章

建築の神話的な根源が述べられている。これによりルネサンスとルネサンス後の理論家たちは幅広く、ときには大胆に、始原の建築の形態について思索を凝らしてきた。

 

2.2 Filarete(一四六〇〜六四)の試論

最初の建物は木の幹で造られた小屋であり、柱の根源の形態を与えたと提言

 

2.3  17世紀後期

始原の建物やオーダーの根源に関するウィトルウィウス的な神話(『建築書』第四書第二章)は建築を人類の最初の「自然な」状態に結びつける手軽な根拠を与えたため、ルネサンス期の建築に関する書き手たちに人気があった。

 

2.4 18世紀

英雄的な原始の建築者というウィトルウィウス的考えはもはや真剣に受け取られず、単なる迷信とみなされ、建築の神話的な根源という物語が主張しつづけられたが、それは全く異なった目的、つまり建築を理性的な体系とする考えを示すために役立っていた

—Laugier  M. A.『建築試論』(1753年)

著書の中で彼の素朴な小屋を見失わず、それが表現する諸原則にしたがって論じる建築術のあらゆる面での利点を主張

 

3、建築の価値安定化──「ミメーシス」または自然模倣

3.1      古典の著者たち

(特にキケロやホラティウスに見られる芸術理論において根本的な考え)

—自然を模倣する能力であるということ

しかし建築は再現的な芸術ではなかった。建築は自然の物体を再現するのでも、詩作のように人間の気分や感情を再現するのでもないから。

つまり建築に内在的な、自然を再現することの不可能、またしたがって模倣的芸術と認定することの不可能は、建築が自由学芸として受け入れられるにあたり重大な障害だった。

 もし建築家が詩人や画家と社会的に同等の間柄に立ち、自身を建築職人と十分差別化しようとするなら、建築は自然が表現される芸術だと証すことが必要。 15世紀末から18世紀末にかけて、この問題は建築思想において主要な関心事

 

 →これに関しては二種類の議論

?      建築がその自然のモデル(= 仮想上の原始の建物 )を模倣すると主張

建築が材木や皮革を石材に翻訳しながら小屋やテントの形態を再現するかぎり、それを自然の模倣と呼び得た。

?      建築が自然の表面的な外観を再現しない一方で、自然本来の諸原則を再現できただけでなく実際行ってきたし、自然の再現が直接的で文字通りであるような他の芸術ジャンルより、その意味でもっと深遠なミメーシスの形式をもたらした、というもの、自然の再現に対するこのアプローチは十八世紀後半に集中的に精緻化した。これによって初めて建築家は、自分の技術がたんに他の芸術に等しいだけでなく、むしろ優っていると主張できた

3.2カトルメール・ド・カンシー

建築が模倣であるとのダランベールの提言を擁護し、建築がいかに自然を模倣するかについてロージエより説得力のある説明を提示する

・カトルメールの出発点

 建築が模倣するとされる「自然」は物理的な物質の世界をいうのか、その世界について人々が抱く観念を言っているのかという問い

彼の答えは、両方だというもの

?                      木造建物の石による文字通りの模倣

?                      自然物に見られる秩序と調和の原則の類比による模倣

 

4、芸術における自由を正当化する際に持ちだされた自然

4.1古代ギリシアの哲学

自然と芸術との差異は、アリストテレスが述べたように「芸術は自然が完成に持ち込めないものを部分的に仕上げる」こと

4.2 16〜17世紀イタリア

自然がつねに創られたものにおいて不完全だという考えがますます芸術における思考で優位を占め、自然のモデルから離れる芸術家の自由を正当化

16世紀のミケランジェロとヴァザーリ

17世紀 ベルニーニ

4.3その後のフランス、イギリス 

芸術は自然を凌駕する。

この考えは庭園設計では効果がとくに明確

・ヴィラ・ランテなどの十六世紀イタリアの庭園

・ル・ノートルによるヴォー=ル=ヴィコント

・ヴェルサイユのような十七世紀フランスの庭園

 

5、政治的理念として──自由として、制約の欠如としての自然

—自由で気取らないものとしての「自然」という現代の意味

イギリスの哲学者の手になるこの意味の展開 →ヨーロッパの専制政治、特にルイ十四世の体制が解放、言論の自由などの「自然」権を否定したと受け取られたものへの反発

特に美学的な次元での展開はロード・シャフツベリによって初めて解説『モラリスト』(1709年)

「 私はもはや自らのうちにの種類の〈もの〉に対する〈情熱〉が増していくのを禁じえない。技芸も〈人間〉の奇想も気まぐれも、そうしたものの本物の秩序を、かの原始的な状態に割って入ることで台なしにはしなかった。粗野な岩石、苔むす洞窟、不規則で手の込んでいないグロット、砕かれた滝さえも、野性そのものの恐ろしい〈魅力〉がありながら、〈自然〉をかえってよく表すものとして、ますます人を引きつけ、〈王侯の庭園群〉の形式張った茶番を超えた〈壮大さ〉をもつようにみえるのだ。」

 

6、観者の知覚の構成物としての「自然」

6.1 Hume, D

「 美はもの自体にある質ではない。ただ単にそれを観想する精神に存在する。そしてそれぞれの精神が異なる美を受け取る 」(1757)

ジョン・ロックの伝統に連なるイギリスの哲学者達に継承

そして芸術への適用

6.2 Burke, E『崇高と美の観念の起源』(1757年)

建築において、18世紀中期にもっとも広く読まれ広範な影響力を持ったテクスト

ペローと同様に、美しい建築の比率は自然物や人間の形体に由来するという考えを捨て去った「人体が建築家にいかなる指針も与えないということは私には明白である」と記した。

 

7、「第二の自然」としての芸術

7.1Goethe

ゲーテにとって、解剖学と植物形態学の研究こそが、彼が芸術と自然との関係について理解を広げる際に影響

「自然を全体であれ細部であれよく見ると、私はいつもこう自問する。ここに表現されているのは対象なのか、お前なのか、と。……現象は観察者からけっして分離できない、むしろ観察者の個性に編み込まれている」

つまり芸術作品の質とは、それが生きる精神の産物であり、作品を見ることは生きる主体の積極的な知覚の関与をともない、その点で、芸術はその形成においても受容においても、双方で自然のようであった。ということ

「ドイツ建築について」(1772)

ロージエの理性主義的な「自然」概念に対する攻撃。作品が人間の表現への本能の所産であることに建築作品(この場合ストラスブールの大聖堂)の力が存すると提唱

7.2 Semper, G・Ruskin, J

彼らは建築が自然に何らかの類似点を持つものの、それ自体は自然ではないというゲーテやドイツの哲学者によってなされた区別を完全に受け入れていた

Hegel, G・W『美学』(1835年)

建築は「明らかに人間の手によって建てられた無機的な自然であり」、「内在する精神によって特徴づけられ生気づけられる」有機的な自然と区別されるのである

・ゼンパー

建築の根源が自然にないことを力説(1834年ドレスデンにおける就任演説にて)

「建築は他の芸術ジャンルとちがい、手本を自然に見出さない」代わりに

「工業技術が……建築ないし芸術の形態と規則一般を理解する鍵である」

したがって、ゼンパーの記述のほとんどはまったく建築に触れることなく、製織、陶芸、金属加工、大工術、石工術を取りあげた。

もっとも単純な原型の形によって展開し説明されるすべてのものと同じように、限りなき多様性がそれでも基礎の観念において単純でわずかであるような自然におけるように、自然が繰り返し同じ骨格を何千と修正することで新しくしてきたのと同じように……それらと同じように、自分の芸術作品もまた、根本的な諸観念によって条件づけられた一定の標準形態に基づきながら現象の無限な多様性を許すものだと、私は自分に言い聞かせる。(「建物の比較理論の趣旨」一八五二年、ゼンパー『四要素と他の記述』170)

 

・ジョン・ラスキン

英国のピクチャレスクを同じドイツの哲学学派の理論に注入すること。自らの極めて宗教的な見解によって、自然を神の作品と見なし、そのため英国の風景画への崇敬と併せて、自然は唯一あらゆる美の根源であると固く信じるに至った

・『近代の画家』(1843)における画家への提言

「心をまったく純真にして自然へ赴き、苦労しつつも信頼して自然と共に歩み、自然の意味を見抜くのがいかに最高であるかだけを考え、その教えを覚え、何も拒まず、何も選ばず、何も軽蔑しない」こと

・『建築の七灯』(1849年)における建築家への助言

「建築家は画家のように、都市で長く生活するべきではない。建築家を我らが丘に送りたまえ、そこで自然ではバットレス、ドームがどう理解されているのか、学ばせよ」

 

8、「文化」の解毒剤としての自然

— Emerson, R.W.

自然は文化の人工性に対する抵抗の手段であるとの考え

 彼の自然観

8.1.1.ゲーテとイングランドのロマン主義詩人からの影響

1830年代に人間の精神の力によって表された事物の質として自然をみた 「その美とは人間自身の精神の美である」(1837, 87)。

8.1.2 自然のうちに超自然的なものの啓示をみる

「あらゆる自然における事実は霊的事実の象徴である」(1836, 49)。

よって自然を用いて、人間は自身の精神的存在を自覚

「正確に捉えるとすべての対象はまさしく魂の新たな能力を解放するものとなる」(1836, 55)。

8.1.3 アメリカで考えられた思考だという背景

1837年、彼は「われわれはあまりに長くヨーロッパの優雅なミューズに耳を貸してきた」(104)と不満を述べ、アメリカ人はその着想を日常の、そして自然の、直接経験から求めることを示唆

この日常の経験とは、部分的にはアメリカ人が歴史に条件づけられることなく自然環境と直面するということであり、またそこから生の哲学、芸術の哲学が生じるということ

 

9、自然の拒否

 一般にヨーロッパの思考において、ダーウィンなどによる自然科学自体の発達に伴い「自然」への関心は19世紀後半において著しい下降線を辿る

9.1 Baudelaire, C 『現代生活の画家』(1863)

「自然が我々に教えることは何もない」

「自然は罪悪以外なにものも促さない」

9.2 Nietzsche, F『悲劇の誕生』(1872)

自然と芸術との本質的な峻別は彼の生涯を通じた主題

「芸術は自然の模倣ではない。むしろ自然の傍らで育まれ自然を乗り越えるための形而上学による増補である」

9.3 Marx,K /Engels, F

二種の自然を仮定

?                      そこから材料を採られるという自然

?                      人の営みの結果として作りだされ、日用品となる自然

十九世紀末葉までには、特に「{近代|モダン}」を信奉した建築家に対し、自然は何も与えるものがなくなっていた。

9.4Wagner, O

建築が特別に持つ質とは「それだけが自然に全く規範を置かない形を作りうる」「その産物〔建築物〕をまったく新たに形作られたものとして示しうる」

この観点は、ゴットフリート・ゼンパーの議論からの系譜

二十世紀初期のモダニズム建築の特徴的な態度&広く建築に関する思想を支配するもの

 

9.5 Woringer, W『抽象と感情移入』(一九〇八年)

もし「自然」がもはや建築について整理して考える際に役立つカテゴリーとして用がなくなったならば、その代わりは何だったのか?という問題をすべての視覚芸術にとっての一般的な問題として認識。彼の考えた芸術は決して自然を表象しないし、第二の自然でもないし、自然を参照することで価値体系を引き出すこともない。むしろ、芸術は「自然と同等の地位で並び、そのもっとも深く内奥にある本質において、自然を事物の目に見える表面として理解する限りでは、自然と何ら関係を持たない」

 

9.6 二十世紀建築のその後

9.6.1 イタリア未来派

− 1914年の未来派建築マニフェスト

「古代人が自然の要素から自らの芸術の着想を引き出していたのと同様に、我々は……この着想を、我々が作りだしたまったく新たな機械にみちた世界の要素から見出さねばならない」

→ 技術にこそ建築が規範を見出すという考え

= 間違いなく二十世紀において「自然」に代わる唯一もっとも重要な考え

 

 9.6.2 モダニズム建築家において、自然を否定しなかった例

フランク・ロイド・ライト・ル・コルビュジエ

・ライト

「第一に、自然は、我々が知っているような建築形態が生み出された建築上のモチーフのために、材料を供給する」

→ 次の世代のアメリカ人建築家、ルイス・カーンがあえて「自然」を斥けたとき(「人が作るものを自然は作れない」)、これはある意味でアメリカ人がヨーロッパの伝統に明らかに再び取り組んだことの現れだったといえる

・ル・コルビュジエ

→ 彼の初期の教育は、自ら読んでいたラスキンに多大な影響を受けていた

∴ 未来派による機械時代の比喩表現の方に入れ込んだ一九二〇年代の合間を除けば、ラスキンに着想を得た「自然」への情熱がつねに現れていた

 

10、環境主義──生態系としての自然と資本主義批判

10.1 環境運動

・建物はエネルギーを過度に使用し、生態系の微妙なバランスに多大な影響を与えているという認識。建築〔行為〕は将来の地球上の生命に影響を与える実践。 リチャード・ロジャース

「建築には自然との対立を最小化する必要がある。このためには自然の法則を尊重せねばならない。……建物を自然の連鎖の中に入れることで、建築はまさしくその根源に立ち戻るだろう」(1997)

 

10.2 資本主義批判

生産という社会関係から人類と「自然」との関係に転換。

この議論は少なくとも環境保護運動の基礎の一部&国際規模の資本主義への批判を支えてきた。同様にこの議論は、工業生産の主流の外にある技術や過程を用い、支配的な政治的経済的秩序を批判する意図で、「代替的な」建築の開発を刺激

 

10.3 環境主義

「自然」を建築上の特質の新たな基準としたかもしれないが、「建物を自然の連鎖の中に入れる」とは何を意味するのかについては全員一致からはほど遠い。「地球にやさしい」建築に適切な材料とは何かについての多様な意見によって、この見解の相違がわかる。環境主義の浸透とそれが生みだすたくさんの矛盾が、ほぼ確実に、「自然」が建築において有効な──争点ともなる──範疇であり続ける

第8講 記憶 Memory

序 概説

1)       どういった意味で建築が持つ_感性的美_の一部を記憶が構成しているのかまったくはっきりしないのであり、そもそも記憶が感性的美に属しているかどうかは実に疑わしい

2)       「歴史」と「記憶」との違いはいつも明確であるとは限らない。

3)       三つの歴史的段階(20世紀のピーター・アイゼンマン、19世紀のジョン・ラスキン、18世紀のホレス・ウォルポール)それぞれにおいて、「記憶」は異なる意味を持っていた

4)       建築家と都市計画家が、特にポストモダンの時代に、「記憶」に熱狂した部分的な理由は、古代以来、哲学者や心理学者が建築や都市を、記憶の精神過程における現象を説明づけるための隠喩として用いることが定式化されていたことと関係

ex1)ジークムント・フロイト (Freud, G)

『文化の中での不満足感』

→ 精神の内に蓄積する素材が保存されることを描き出すためにローマを用いたのだが、それに続けて、他の点ではこのイメージが精神の心理機構との比較に適していないことを強調

→ しかし「永遠の都市」や記憶の地としてのローマについて多くのことが語られることが止むことはなかった

ex2)歴史家のフランシス・イエイツ(Yates, F. )『記憶術』

→ 建物と記憶とが結び付いているという想定を何よりも後押し

→ 長い弁論を記憶する手段として記憶宮や記憶劇場を用いる古代の記憶法  を再発見

→ しかし建築それ自体が「記憶術」の一つだとする歴史的権威に基づいたさらなるこじつけの主張がそれだけで正当化されることはほとんどなかった。

以上を始めとする様々な点で「記憶」という概念が複雑さを孕んでいることは、「記憶」を建築のカテゴリーとして考える上で、考慮しておかなければならない

 

「記憶」に関する三つの歴史的段階

1、 18世紀

建築の、そしてその他の芸術の感性的美における要素として記憶が最初に現れてきた記憶がその時代に現れてきたのは、知識の増大による断片化や、文化と文明の全体性が失われてしまうという感覚に対して、記憶が抵抗の力を持っているように思われたためであると一般には考えられている。芸術作品に対する反応のひとつの相である「記憶」を涵養することが、何らかのかたちでの回復につながるという希望を与えた。

 

1.1 「記憶」の発見の起源

Locke、J 『人間知性論』(1690年)

精神過程についての説明(記憶が個人に与える知覚の自由は、ロックが他の著作の中で市民に訴えかけていた政治的自由と一致)に始まる

Addison,J『スペクテーター』(1712年)

「想像力の快感」についての一連の記事

「快感は単に視覚をはじめとする諸感覚から得られるだけではなく、想像上のものをじっくり観想することによっても得られるものだ。・・・想像による第二の快感は、様々な対象物そのものから生じる観念と、それらの対象を再現する彫刻、絵画、記述、あるいは音声から受け取る観念とを比較する精神作用から発する」

芸術作品の力は作品が喚起する観念同士の連関〔association of ideas 観念連合〕に由来するということ

「私たちの想像力は……不意に、都市や劇場、平野や牧草地へと私たちを導いていく」、つまり、知覚に現前しているものからはあまりに遠すぎる土地へと私たちを導いていくのである。「そのように、空想の中に過去に過ぎ去ってしまった風景が浮かんでくるとき、当初見たときに心地よかったものは、さらにより心地よいようである。記憶は対象そのものが持つ歓びを高めるのである」

 

1.2 18世紀のイギリス

前半には、庭園建築、廃墟、そして彫刻の目的が特定の記憶や連想〔association〕を喚起することに置かれる傾向

例 ストーの庭園

後半にははっきりとした変化が起こり、これまでとは全く異なる、規定化されていない連想へと移行した 

トーマス・ホエートリーの著書『近代造園術についての批評』(1770)

象徴的な連想のモードから表現的なそれへの脱却として描写。自然の風景は、特定の指示対象なしに、あらゆる個人の中にそれぞれ異なる観念の連鎖を生み出し、その連鎖自身が美的な快感の要因となるだろうと考えられていた

 

1.3 18世紀末のイギリスにおける美学

1.3.1精神活動の三つに区分された段階——対象の直接的な認知、記憶、そして想像——の間の関係は主要な論点の一つ

Kames, Lord 『批判主義要論』

「私たちが住む世界を満たす事物は、その多数であることのみならず多様であることにおいても特筆に値する。これらは、精神に多くの知覚を与えるのである。知覚は、記憶の、想像の、そして反省の観念と結び付けられて、切れ目や隔たりのない完全な連鎖を形作るのである」

 

Allison,A. 『趣味の自然本性と諸原理についての試論』(1790)

「私たちの観念がより増大すればするほど、あるいは私たちの知覚がどんな主題をも取り込むように広がっていけばいくほど、私たちがそれに結び付ける連想の数は多くなり、我々がそれから受け取る崇高や美の感情も強くなるのだ」

 

Payne, Knight, R. 『趣味の諸原理についての分析的考究』(1805)

記憶は、「増進された知覚」へと至る手段を与えるもの。記憶は対象物が喚起することのできる観念の範囲を拡充「あらゆる知性による快感は、観念連合から生ずるのであるから、連想の構成要素がより複合的になればなるほど、そのような快感の得られる圏域も拡大する。知性豊かな精神にとっては、感覚に現れるほとんど全ての自然や芸術の対象物が、諸観念の新鮮な連鎖や組み合わせを刺激したり、前からあったそれらのものを活気づけ強化したりするのである」

 

1.3.2観念連合の欠点

1)美的快感を、教養教育の恩恵を受けた人々のためだけにあるものとして大幅に制限

・アリソン

「疑いのないことだが、一般の民衆は、そのような対象物から、教養を身に付けた人々が感じるよりも非常に劣位な〈美の感情〉しか抱かないのである。現代の教育がいちはやく結び付けるような〈連想〉を、彼らはひとつも持たないからだ」

美的なものについての説明が、特定の個人の経験という偶然的なものにそれほど強く依存していては、一般理論としては説得力に欠けた

 

2)美的なものの所在を全て主体の精神過程の中に位置付けたこと

 ・ペイン・ナイト

「我々の記憶の中でひとりでに互いの連合を作り出す」様々な観念から引き出されるのであり、対象物との遭遇からではないということ。快感は、対象物が喚起する様々な想念の連想から引き出される。

ドイツで主にカントによって展開された美学哲学では、美的なものは、対象物の感受と対象を観る主体が感じる感情との_中間に_ある何かに関係していた。この伝統に与する哲学者達にとって、ただ精神の内部しか扱わず、また美的なものは意識的には制御できないとする説明は、あまり関心を惹くものではなかった。

このような理由から、「記憶」や「連想」といった言葉が、カントの哲学や十九世紀ドイツの美学哲学の中に居場所を得ることがなかった。イギリスにおいてさえ、「記憶」や「観念連合」は、急速にその訴求力を失っていった

2、19世紀 Ruskin、J.

2.1『建築の七灯』(1849)の六番目:「記憶の灯」

古くなった18世紀の連想の理論を取り上げて、より耐久性のある強靱な概念へと転換した

「人間の忘れやすさを力強く克服し得るものは二つしかない。すなわち〈詩〉と〈建築〉である」。この二つのうちでは、建築の方が優っている。なぜなら建築は「人間が考えたこと、感じたことばかりでなく、彼らの手が触り、彼らの力が働き、彼らの目が捉えたものをも」提示するからだ。言い換えるなら、建築だけが提供し得るものは人間の労働の記憶であり、それは手の労働と精神の労働の両方を含むからであった。古代建築の姿が触発する記憶とは、古き時代の美徳や自由、クロード・ロラン風の風景の回想といったありふれた題目ではなく、その仕事がどのような性質のものであるかについての実感であり、その建物が作られた際の労働の状況なのである。

 

2.2 ラスキンと十八世紀の彼の先人達の間には「記憶」という言葉についての差異

2.2.1ラスキンにとっては想起されるものとは精神的な想像作用の終わりなき連鎖ではなく、もっと限られた特定のもの、すなわち仕事であるという点

2.2.2記憶は個人的なものではなく、社会的で集合的なものであるとされる点

国民文学や国民詩と同じく、建築もまた国民建築として、ある国家が共有の記憶を通じてアイデンティティを確立するための手段のひとつとする

2.2.3「記憶」という言葉は過去にのみ関わるものではなく、現在が未来に対して有する義務でもあるとされている点

 

2.3 「記憶」という言葉についての考え

「歴史」という言葉についての彼の構想と深く関わっており、その二つを区別しようとしても得るものはない

2.3.1彼の考えの影響その1)

古代建築物の保存に対して詩と同じように、建築もまた特定の誰かや現在だけに属しているのではなく、全ての時代に属しているのだと強調→建築に対して現在が有する権利は所有者が生きている限りのものであり、その建築を後代のために守ることが現在に課された義務

「私たちが過去の時代の建物を保存すべきかどうかというのもまた、都合や心情の問題ではない。_私たちにはそれに手をつける権利は全くないのである_。それは私たちのものではない。一部はそれを建てた人々に属し、一部は私たちに続く全ての世代の人類に属するのである。」

2.3.2彼の考えの影響その2)

新しい建築よりも、むしろウィリアム・モリスと一八七七年設立の古代建築物保護協会〔Society for the Protection of Ancient Buildings〕によるイギリスにおける保存運動の進展に対して

(モリスは「記憶」という言葉を彼の政治思想の重要な一要素へと展開していくことになる。)

2.3.3彼の考えの影響その3

・オーストリアの美術史家アロイス・リーグル(Riegl, A.)によるエッセイ(オーストリア=ハンガリーの政府による古い建造物の保護のための提案の一部として1903年に書かれた)古代建築物の持つ記憶としての意義というラスキンの観念をさらに精緻にしたもの→彼は、人々が厳密にはそうした古い建造物をどのような点で価値あるものと見なしているのかについて問いかける。

?「歴史的価値」〔historic-value〕、すなわちその作品が何らかの歴史的瞬間についての証しを提示しているということ

?「経年的価値」〔age-value〕、つまり時間の経過という一般化された感覚とを区別→ 大多数の人々に関する限り、求められるのは経年的価値の方であると結論

 

→ エッセイを書いた頃には、「記憶」という言葉は既に攻撃にさらされていた

ex) 1874年 ニーチェの「反時代的考察—生に対する歴史の利害について」というエッセイにおける有名な記憶の排撃と忘却の称揚

「ほとんど記憶なしでも生きること[……]は可能であるが、忘れることなしにはおよそ_生きる_ことなど不可能である」と断言

 

3、20世紀 モダニズム

3.1モダニズム建築にとって——モダニズム芸術にとってと同様——作品の内的本質を減ずるものや、作品との無媒介的な対峙の外側にあるものは、侵入させてはならないものであり、作品にとってのそうした脅威の筆頭が記憶だった

Scott、G. )『ヒューマニズムの建築』(1914)

「〈ロマン的欺瞞〉」を攻撃するなかで、「ロマンティシズムは造形的な形態にはそぐわない。ロマンティシズムは、漠然としたものや記憶に浮かんでくるものに関わりあいすぎるので、徹底して具体的であるもののうちには自らの自然な表現を見いだすことができないのだ」と述べる。ロマンティシズムの{表現手段|メディウム}である文学の重要性と価値が存在するのは、主として、その直接の素材を構成する音の意義、意味、連想の中である。反対に建築は、主に直接訴えかけることで私たちに影響を与える芸術である。建築の重要性と価値は、素材や形態と呼ばれる素材の抽象的な配置に主に宿るのである……根本的に、この二つの芸術の言語は、まったく異なるのであり、正反対ですらあるのだ。

3.2文学

絵画、彫刻、建築などの造形芸術の中で記憶が否定されたが、モダニズム芸術の一つの形態——文学——の中では、記憶は主要なテーマ

マルセル・プルースト(Proust,M.)『失われた時を求めて』

忘れることなしに記憶は存在しえないことと、記憶の利点は記憶と忘れることとの弁証法の中にあるということ

二十世紀初頭のもう一人の記憶についての偉大な研究者であるジークムント・フロイトとの彼の接点

3.3 建築における記憶の第三段階

20世紀の最後の1/3

一般には、二十世紀はそれ以前の歴史ではありえなかったほどに記憶に取りつかれていた。博物館、公文書保管所、歴史研究、文化遺産計画に対する20世紀の膨大な投資は、忘れることに怯えているように見える文化の兆候

歴史と記憶の差

Benjamin, W.

「歴史」——19世紀の学問のひとつ——は、支配権力の利益に与するように出来事を歪めてしまうものであった。

「記憶」とは個人が歴史の覇権に抵抗するための最も重要な手段

 

3.3.1 Bachelard, G.『空間の詩学』(1958)

目的は、「家が、人間の思考、記憶、夢を統合する最も偉大な力のひとつであることを示す」こと

バシュラールにとっての記憶は純粋に精神的なものであって、彼自身慎重に説明しているように、その記憶の概念は容易に記述というかたちで表現できるものではなく、当然、物質的な構造に置き換えられるものではなかった

3.3.2二十世紀末に起きた建築言説への記憶の再導入

記憶の再発明と関連づけられる人々

3.3.2.1イタリアの建築家アルド・ロッシ(Rossi, A.)『都市の建築』(1966)

− 正統的モダニズムに関する彼の批評の一部として、彼は、都市建築の新たな形態を開発する手段は、すでに存在する建築を研究することだと提案。「記憶」を導入したロッシの目的→ 「機能主義」以外のモダニズム建築のための論理的根拠を見つけること

 

3.3.2.2Rowe, C Koetter,F.「コラージュ・シティ」(1975)

モダニズムが未来のユートピア的環境の実現だけに固執していることに疑問理想の都市は「予言の劇場である_と_同時に、記憶の劇場として振舞うことはないのだろうか」と問いかけた

主張の要点は、人はその両者に対して選択権を持つべきで、未来に身を置くことを強制されるべきではないということ

・社会の記憶に関する近年の研究

→ 関心は物から、記憶に作用する媒介物としての活動へと移っている

3.3.3Connerton, P. 『どのように社会は記憶するのか』(1989)

「刻み込む」実践と「組み入れる」実践との違い

戦争記念碑のような物体は、その周りで執り行われる祭典や活動ほど重要ではない

3.3.4ド

996)

第7講 歴史 History

1、 十九世紀における「歴史的建築」

  1.1 歴史の重み:リバイバリズム

過剰なまでの考古学的な知識を前にして、十九世紀後半の主要な関心事のひとつは、絶え間ない様式のリバイバルによる様式の価値の低下をいかに避けるかにあった。

—Violet-le- duc

   我が時代のヨーロッパ人は、人間の前進が加速されている状況ゆえに、そしておそらく正確に言えばあまりにも速く前進しているからこそ、人類の過去全てを再現する強い必要性に駆られている

1.2「歴史的建築」を創造する責務

もし建築が過去の人々の意識に接する機会を提供したとするならば、十九世紀に創られる建築は後の世代に対して十九世紀の精神構造の本質を明らかにすると想定できるということである。

 —Morris, W

建築の様式は伝統を抜きにすることはできないし、少なくともそれは以前に行われてきたあらゆることと全く異なることで始めることはできないであろう。しかし、それがいかなる形で現われようともその精神はその時代の要求や願望と共鳴するものとなり、過ぎ去った要求や願望の模倣とはならない。

 

2、「歴史」とモダニズム

Nietzsche, F

歴史を拒否することは過去に対する復讐であった。建築家たちの復讐の下地の一部は、著作『悲劇の誕生』、『反時代的思考——生に対する歴史の利害』、『道徳の系譜』において十九世紀の歴史学を攻撃したフリードリヒ・ニーチェによって用意された。実際、ニーチェは歴史そのものの重要性を否定したわけではなく、むしろ歴史を克服し、忘却することを通して超歴史的な意識に到達し、完全に現在に生きる必要性として問題を捉えていた。

2.1近代建築国際会議〔CIAM〕

創立会議での宣言文の最初の段落には、署名者たちは「自らの作品に過去の時代や過ぎ去った社会構造における設計原理を適用することを拒否する」

2.2 bauhaus

ドイツのバウハウスの教育プログラムでは、学生に建築史を教えなかった

2.3 歴史的建築としてのモダニズム

 2.3.1 Pevsner, N

  一九三六年に著した論争的書物『近代主義運動の先駆者たち』

 2.3.2 Giedion, S 

  『空間、時間、建築』(一九三八年から三九年にかけてグロピウスの招きによってハーバード大学で行った講義をもとに書かれた)

  Popper, Kの『歴史主義の貧困』によって広まった言葉

 2.3.3 Gropius, W

    ハーバードの授業から建築史をはずした

 

3、 モダニズム以降の「歴史」

過去と現在の相剋としての「歴史」は現在においてしかつくりえない。したがって新しい建築作品全ては歴史的行為であり、それらは多かれ少なかれ既存の作品すべての再解釈を促すのである。こういった意味あいでロジャースは建築を「歴史」と捉えていた。

3.1イタリアの建築家

3.1.1Gregotti, V

『建築の領域〔Il Territorio dell’Architettura〕』1966

 「歴史は興味深い道具を提示する。その知識は必要不可欠のようでありながらも、一旦習得しても直接使うことはできない。換言すればそれは廊下のようなもので、出口に行き着くために端から端まで歩き通さなければならないが、それが歩き方について何かを教えてくれるわけでもない」

3.1.2Rossi, A

『都市の建築〔Architecture of the City〕』1966

こうした永続性は過去の物理的な痕跡としての記念碑や、都市の基本レイアウトや計画における永続性として明らかになる

 

3.2フランスの社会地理学者

 ロッシの{人工物|アーティファクト}の「恒久的なもの」に現われる都市発展の過程だとすると、もう一方はフランスの社会地理学者たちに由来する「{集合記憶|コレクティヴ・メモリー}」という概念に包含される

ロッシはその考えを援用し、「すべての都市はそれぞれの魂を持ち、それは古い伝統、現在の生きた感情、あるいはまだ満たされていない願望で作られている」

3.3 ロバート・ヴェンチューリの『建築の多様性と対立性』1966(アメリカ版ロッシ)

しかし「歴史」という言葉の定義でロッシとは全く異なっていた。

ロッシの攻撃の対象が「機能」であったのに対し、ヴェンチューリの攻撃は「{形態|フォーム}」、特にモダニズムにおける{形態|フォーム}の過剰な単純化に向けられていた。

3.4ダニエル・リベスキンド

二十世紀の歴史哲学の教訓を学び、それを作品に適用した数少ない建築家の一人

有意義な建築を創造するということは、歴史を真似ることではなく、明確に表現することである。またそれは歴史を消すことではなく、取り組むことである