第9回 階級性

06ジャン・ペロー『エッフェル塔の前で』
成実弘至編『モードと身体』
角川書店2003より

建築界には「豪邸問題」と言う言葉がある。「豪華」な住宅が必ずしもいい建築作品にはならないという事柄を意味する。潤沢な資金のもとに作られる豪華な家は一見素晴らしい建築作品になると思われがちである。しかし、なかなかそうもいかない。そうした潤沢な資金を持つクライアントが抱く豪華さを象徴するデザインのステレオタイプが建築家の創造性と齟齬をきたすのである。つまり建築の創作を困難なものにしてしまうのである。その昔、様式の使い方とその修辞が建築家の技だったときはまだしも、現在こうした類型化した技法を当てはめても創作にはならない。

しかし昨今のクライアントは徐々にそうした類型化した豪華さが所謂「成金」という記号になることを知り始めた。それを恥と思うようになってきている。かれらもかなり勉強をしている。その中で彼等は記号を求めなくなり、徐々に本当の意味での生活のクオリティを欲している。それは階級を忌避し、格差を見せず、個別性を望むことのようである。

目次

1.階級と様式の生成

 支配層と人民/有閑階級の理論

2.ファッションにおける平準化

 十八世紀/ココ・シャネル/クレア・マッカーデル

3.芸術の平準化

 クラシック音楽における平準化/ポップアート、ポピュラー・ミュージック

4.建築における平準化

 理念としての大衆化/理念としての大量生産/商品化住宅

5.格差の克服

 格差の誕生/疲弊社会/疲弊からの脱出

第8回 消費性

05パンテオン A.D.2 ローマ

私が学部3年生の時、今は亡き建築家篠原一男は故倉俣史朗を非常勤講師に招き、ショップという課題を学生に出した。それはインテリアデザインである。国立大学の工学系の建築学科においてインテリアデザインを、しかも商業建築を課題に出したのは当時としては新しい試みだったに違いない。商業施設なるものはそもそも『建築』ではなかったと思われる。戦後建築といえば公共施設であり、その後、住宅もやっと『建築』になり、そして商業施設がそろそろ『建築』に仲間入りするときだったのだと思う。倉俣史朗が来た次ぎの年磯崎新がパラディウムというディスコをニューヨークに設計した。バブルが始まる頃である。

目次

1.永遠性の喪失

 神、王の建築/人々の建築

2.消費社会の成立と変容

 消費者社会の成立/実消費から虚消費へ/ファッションと建築

3.消費との距離

 伊東豊雄-消費の海/坂本一成-違反/

 レム・コールハース-ジェネリック/ポスト大衆消費社会

4.二十一世紀への展望

 脱物質主義

第6回 倫理性

04イマニュエル・カント 肖像画  (wikimedia)

建築はそもそも造形芸術だった(今でも過去形にはしたくないが)。しかし20世紀にはいってコルビュジエが言うように建築は「機械」となってしまった。機械というものは人の利便のためにある。それは社会のためにならなければならない。その意味でそれは機械の倫理を背負わされた。近代建築のそうした倫理性について、建築芸術論者は反論をする。しかし21世紀にはいると、この倫理性は20世紀とは少し様子が違ってきている。

また倫理性を少し離れた建築本来の姿に戻ろうとする流れも見受けられる。

目次

1.モダニズム期の倫理

 黎明期-ジェフリー・スコットの理路/

 終焉期-デーヴィド・ジョン・ワトキンの理路/建築内的思考

2.ポストモダニズム期の倫理

 建築において/倫理学と建築の接点

3.二十一世紀の倫理性

 エコロジー

4.悪党的、倫理の乗り越え

 ハビトゥスの書き換え/規範性と固有性#1/規範性と固有性#2

第5回 主体性

03フラ・アンジェリコ、受胎告知、1437−46、サン・マルコ美術館(フィレンツェ)、wikimedia

コンテンポラリーダンスグループ、レニ・バッソの主宰者北島明子は自ら振り付けをする立場ながら、「割り当てられた位置に、決められたタイミングでいく」ということに違和感を感じると言う。それは振り付けの概念をそもそも否定しているようにも聞こえる。しかしここで彼女はコンタクト・インプロヴィゼーションという、ダンサー相互の位置関係で振り付けが変わるような方法を編み出した。

つまりダンサーの主体性で踊りを見せるのではなく一つの主体と他者との関係性を見せる振り付けを編み出したのである。建築にも似たようなところがある。建築家が自らの強い主体性を打ち出すことに違和感を感じる人が多い。あるいは創作とは常に主体性と他者性の表裏一体となった化合物なのかもしれない。しかし主体と他者はそう簡単に線引きできるものでもない。

目次

1.近代主体の成立

 主体を支えた科学/主体建築の寿命

2.近代主体の変容

 科学の独り歩き/哲学的変容/メディアの発展/八十年代の視線

3.主体変容後の可能性

 他者の入り込む美学/他者の入り込む場所/

 主体と他者の拮抗/アルゴリズミックな可能性

第3回 視覚性

02ピエール・コーニック/CSH#22、
1960、ロサンゼルス、ジュリアン・
シュルマン撮影

篠原一男はよく美しいエレベーションが一つ無いとよい建築にはならないと言っていた。東工大100周年記念館の設計をしていた頃、「その建物はどこから写真を撮るのか?」とスタッフによく聞いていた。建築を社会化するためには、建築ジャーナリズムにおける写真の重要性を篠原は強く意識していた。それが住宅であればなおさらである。篠原に限らず、メディアを意識している建築家はル・コルビュジエをはじめとして数知れない。

しかし一方でいい写真がとれればいい建築か? という疑問も湧いてくる。つまり建築は静止した一点から美しく見えることではなく使う人の体験の中で、つまり動的な視線の中で現れるのではないか?という疑念である。しかしそうした体験的建築でもどこかにいい絵がないと人に伝わらないというジレンマもある。建築体験をうまく伝える視覚とは?

目次

1.視覚の時代としてのモダニズム

 絵画の場合/建築の場合

2.アンチ視覚

 グリーンバーグからクラウスへ/モダニズム建築の瓦解

 ル・コルビュジエ vs. アドルフ・ロース/篠原一男 vs. 伊東豊雄、坂本一成

3.生き延びた視覚

 三つの視覚/フェルメール的視覚

第2回 男女性

01白のパンタロンと上着を着たシャネルとリュシアン・ルロン
ヴェニス 1931
エドモンド・シャルル・ルー『シャネルの
生涯とその時代』
鎌倉書房1990より

社会に出て建築の設計を始めて数年すると、周りの人の描いている図面が気になり始める。一体自分の描いているものはなんぼのものだと思うようになる。そして先輩同輩の図面をしげしげと眺めると、それぞれにデザインの癖のようなものがあることに気付く。

そのなかでも曲線を使うか使わないかというあたりはひとつの分かれ目のように感じた。現在のようにcadが普及しているとさほど感じないが、手描きだったそのころは、曲線を使うのは図面技術の問題からも、数値をうまく整えていく上でもなかなか難しいことだった。だからそれができる人はデザインができる人のように言われた。そして曲線=優美という一つの美的価値を獲得していたように思う。

ライトが曲線を多用したジョンソンワックスビルを女性的と呼んだそうだが、優美が建築の価値となるのと女性の社会進出とは無関係ではない。それまでの男性社会では建築は男性的であることがよしとされていたのだから。

目次

1.性差と形象-西洋

 オーダー/男性優位

2.性差と形象-日本

 縄文/弥生/和歌/カワイイ

3.性差と使用-西洋

 古代/ルネサンス/近代

4.性差と使用-日本

 中性から近代へ/中性化する現代