日: 2017年6月26日
付1 先天的と後天的 – intention
DNA
僕の友人は、とある大きな新聞の週末版を作っている。その週末版では、毎号1面、2面を「時の人」のために特集する。ある週、隈研吾という話題の建築家の紙面を作り、次の週に、イデーというインテリア会社の黒崎社長の特集を組んだ。隈研吾は表参道にファッションビルを作ったと言って、黒崎は古くなったビルを住宅に変えるプロジェクトを進行中ということで時の人となった。
友人曰く、両方とも時の人だけど、時代は黒崎だよと言う。黒崎が、このコンヴァージョンプロジェクトを打ち上げた時、手弁当で参加したいという学生が山のように集まったと友人はあたかも見てきたかのごとく僕に告げるのである。学生が集まるのは、新しい何かを創り出すより、古くなった何かをカスタマイズすることの方がおしゃれであるというファッションセンスに繋がるところがあるようだ。
しかし時代が黒崎であろうとも僕らは建築家で、産み落とす職業である。そんな職能を前提としていること自体を古臭いとは少し思うけれど、産み落とす人はなくならないというのも一方の真理であろう。しかし、この産み落とすというところが曲者で僕らは何を願ってこの子らを産み落とそうというのであろうか?
人はDNAと言う設計図を親からもらうと言われているけれど、この設計図がその後の自分をどこまで方向づけているのかは正確にはわからない。人は社会に順応してオトナになるというのだから、この設計図はどこかで順応という書き換え(或いは修正)を施さざるを得ない。一方建築とはどんなものだろうか?時代のニーズの変化の早い現代では、産み落とされた時点のリクエストと20年後では明らかに異なると思われる。順応という設計図の書き換えがやはりいるのだと思う。
そうした書き換えこそがオトナへの成長であり人間なら一回り大きくなったと言ってポジティヴに考えられるわけだ。建築もそうした書き換えが年輪を重ねるという如くその建物の厚みを増していくようなことになるのだろうか。そんな書き換えられることを前提とした設計図を僕らは書けるのだろうか?
I 計画の不可能性と可能性
1)後天的1(先天不可) passive uncontrollability —S.M.L.XLのニヒリズム 2)後天的2(計画的後天) positive uncontrollability —メタボリズムの限界 3)後天的3(フレキシビリティ) II 建築という種子(後天的4) 1)オフィス2003年問題 III コントロールできないことをコントロールしないという計画(後天的5)
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