第5回(建築)『新・建築入門』
著:隈研吾
ちくま新書
新建築入門レジュメ・この本では1994 年時点までの世界と、その時までの隈さんの姿勢が⾒れ、建築はハードだけではなく、その時代時代の思想だったり、哲学だったり、宗教観を反映したソフトでもあるとわかった。
では、現代の建築物はどういった思想なり、哲学や宗教観を反映しているのだろうか。現代っぽい建築とは何があるか。
それは何をあらわしていて、そもそも今はどういう時代なのか。
( 多様化、多層化、メタバースetc?)
・「主体」、「⾃⼰」、「普遍」やミケランジェロに対する「逸脱を指向する奔放な想像⼒」というワードや、普遍性獲得のための客観性としての幾何学の挿⼊などがしょうかいされていたが、わたしたちが話しやすいレベルまで下げると、「設計課題をやる際の、⾃分の回答の理論の部分と恣意の部分のバランス」みたいな話しにつながるのではないか。(プレゼンはある意味普遍性を伝えるというか)この理論と恣意性のバランスはよく悩む部分な気がするが、これに関してはどう考えているか。
参考:p.154,.184
・p.222「90 年代のスター建築家達が、ポスト構造主義の哲学者のフレーズを借りて唱えていた脱構築の建築家は、頭の中だけで考えたフィクションあるいはファッションにしか⾒えなかった。彼らは〜」で⽰されているような違和感抱えていたが、本書出版後は隈さん⾃⾝、地⽅にあししげく通うなど、⼤きな転換があったとあとがきにある。
p.224「⻄欧的な⼈間中⼼主義を脱却して、新しい、⾮⻄欧的な⼈間と物のネットワークを具現化しようとする試みだった」
⽊ルーバーで壁や屋根、内装や外装という分節や序列を超えて建築の全体を覆うのは隈さん流の脱構築の模索なのか。
隈さんの表層に⾃律した建築ボキャブラリやパタンを配置する⽅法論?はどう評価されるべきと思うか。
-1994: M2, 雲の上ホテル
1994-: 那珂川町⾺頭広重美術館, 東雲キャナルコートCODAN3 街区, サントリー美術館, 根津美術館以降
・p.10「ではいかなるムーブメントが、なにゆえに建築を否定しようとするのか。建築という制度のどの部分、どの特質
が否定されようとしているのか。」とあるが、実際にこのようなことを感じる場⾯はあるか。否定されるとまでは⾏かずとも、やりにくさや、⽴場の弱さを感じる場⾯はあるか。それはどんな場⾯で何が問題なのか。
( 国⽴競技場、万博etc)
・p.11「その概念を解き明かすことによってしか、建築をこの混乱から救出する道はないであろう。」とあるが、本書を通して結論が出された印象は(私は)ない。普遍性の獲得は⻑区にわたってできていないわけだし、なかなか難しそう。では、それ以外に結果として何がどうすれば、建築に携わる⼈はやりやすくなるのか。
・p.14「建築の定義ほどあいまいで、わかりにくいものも少ない」とあるが、⾃分⾃⾝の中での定義は?
「建築好き」とか「建築やっている」という⾔い⽅を聞くことがあるが、それは何を指すか。